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第9話

 エミリアに頼み込んで、ファンやってる先輩というのから「生の小田川さんが拝めるところ」を聞き出してもらった。どうしてそんなことを聞くのかを突かれると覚悟していたけれど、エミリアは追求してこなかった。ただ、代わりにあたしのおすすめ本読んで感想文出してねと言われた。哲学書は無理だと答えると、古い推理小説を渡された。  ファンやってる先輩いわく、当然カタいのは清渓寮3棟及び理学研究棟であるものの、このあたりは完全なオープンスペースではないのでうろうろするのははばかられる。土曜午前の理工学図書館3階のミーティングルーム周辺、平日は同じ建物1階のカフェテリア、17時から閉店の18時までが狙い目とのことだ。月に1、2回、キャンパス内の郵便局で見かけることもあるらしい。ストーカーやってる先輩の間違いではないのかと思ったけれども、自分も同じことをしようとしているのだから口をつぐむしかない。  授業とバイトの都合がつく日はできるだけカフェテリアに顔を出した。キャンパスの端にあるからか時間帯上軽食営業しかしていないからか、さほど混雑していなくて給水器の水だけで勉強しているふりをしても問題がないのが、金銭面では助かった。そうこうしているうちに本格的に夏らしくなってきて、前期の試験やらレポート提出やらが近づいてきたので、本当はふりもなにも勉強をしないといけないのだけれど、教科書を開いてもろくに集中できない。奨学金、返済、就職、大手、安定、親孝行、などの言葉を頭に浮かべてみても、あっという間にかき消される。土曜の午前は理工学図書館3階ミーティングルーム横、「和雑誌」のコーナーで粘った。  2週間半頑張った。まだ小田川さんには会えていない。頑張ったといっても毎日完璧に張り付けるわけではないし、ファンやってる先輩いわく、でもそもそもあんま外で見かけない人とのことなので仕方がないと思う。  試験シーズンが始まった。回答用紙を提出するたび、レポートを提出するたび、思ったよりはできたはず、大丈夫なはず、と自分に言い聞かせている。なんとかまともな結果を出すために、覚悟を決めてB談話室から遠ざかっているので、サカケンさんともカクタさんともタカチホさんとも誰とも、最近少しも話をしていない。学科学類が同じメロスとはたまに顔を合わせるけれど、ワッチ忙しいもんなー夏休みに遊ぼうなーとにんまり笑うばかりで、談話室には誘ってこない。  こうまでしてなんのために他人を追い回しているのか、本人に会えたところでどうするつもりなのか、自分でもさっぱりわからない。わからないまま3回目の土曜日になった。  (わたる)は「和雑誌」のコーナーの、本棚の陰になるテーブルについて、一般力学の講義のノートと教科書を開いていた。開いているだけでちっとも読み進まないので、いっそ並んでいる全く聞いたことのない専門誌でもめくってみようかとも思うけれど、一応試験勉強をしているというポーズを崩す勇気がない。  目を上げると、本棚の向こうに壁掛けの時計と、ミーティングルーム1の扉が見える。ファンやってる先輩によれば、小田川さんはときどき、理工学図書館のミーティングルームで勉強会だか学習会だかに参加していることがあるらしい。とっつきにくいタイプに見えてこういうのには積極的なのがまたイイ、そうだ。  時計は11時45分を過ぎた。12時半までに出てこなかったらその日は空振りと見ていい、らしい。この席からなら時計も見えるし、3つあるミーティングルームのどの扉から人が出入りしてもほぼ見逃さない。あと45分と思ったときにミーティングルーム1の扉が開いた。7、8人、本やパソコンを持った男の人たちが流れ出てきて、最後が小田川さんだった。  隠し撮りの写真と違って、少し笑っている。やっぱりかっこいいと思った。こちらに背中を向けて扉に鍵をかける。Tシャツの袖から伸びた、日に焼けて筋肉の線の濃い腕に見とれた。見とれている場合ではなかった。もう行ってしまう。航は荷物を鞄に突っ込んで席を立った。このあとどうするのか何も考えていない。  本棚の脇を抜けてミーティングルームの前に出る。小田川さんたちは左手のエレベーターに向かって歩いている。 「あの」  こぼれた声は小さくて、たぶん小田川さんに届かなかった。だいたい、届いたところで何を尋ねるというのだろう。あの、どうしてあの人に手を上げたんですか。  エレベーターの上の大きな表示灯が「2」を示す。先頭の1人が大股でエレベーターに近づいてボタンを押す。表示が「3」に切り替わり、扉が開いてガンディーさんが出てきた。航は足を止めた。  ガンディーさんは集団の中の1人と肩を叩き合って何か喋った。笑っていた。そのままこちらに向かってくる。小田川さんの脇、もうほとんど腕と腕とが触れているくらいのところを、何の表情も浮かべずに抜けた。背中が丸まっていた。小田川さんは1度も振り向かずにエレベーターに乗った。ガンディーさんは背を丸めたままでまた笑って、今度は航の顔を見た。 「うち来る?」 「え」 「今日シフト入ってないよね。俺オープンからだけど」  航はうなずいた。ガンディーさんの目を上から覗くことになって、こんなに頼りのない人だったかと思った。

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