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第10話

 ガンディーさんのアパートは、航にもはっきり木造だとわかる建物で、2階建てで、屋外に階段があって、半分くらいの部屋の郵便受けからチラシがはみ出ていた。扉を開けた途端湿った熱気が溢れてきた。散らかってるけど、と言われて中に入ると、狭い玄関の横に冗談みたいに小さい流し台と洗濯機があって、そこから先がいきなり畳で、傘つきの電球が天井からぶら下がっていた。本物だ、と思った。そして本当に散らかっていた。 「ちょっと待ってね」  ガンディーさんは敷きっぱなしの布団をタオルケットごと3つに畳んで部屋の隅に寄せた。1枚だけあった座布団を指さされたので座った。正座もあぐらもどうかと思ったのでとりあえず膝を抱えた。 「クーラー、一応あるけどろくに効かなくてさ。かと思ったら異常に冷えたりするし」  ガンディーさんは扇風機を回した。 「冷たいもんいる?」  今度は部屋の隅の、ホテルみたいなサイズの冷蔵庫を指さされた。上にスーパーの袋が乗っていて、カップ焼きそばのパッケージやおつまみか何かの袋が透けて見えるので、液体以外も口に入れることはあるらしい。 「大丈夫です」 「おっけ」  ガンディーさんは畳んだ布団の上であぐらをかいた。  本当に散らかっているけれど、汚れ物が溜まっているわけではなさそうだ。ただ何もかもが床に直接置かれているのでごちゃごちゃとして見える。洗ってあるらしい服も本や漫画も馬の写真の載った新聞も、再生機器が見当たらないのに何故かCDも、全部床に投げ出されている。食べ物だけは冷蔵庫の上にあるあたり衛生観念はまともなのかもしれない。と思ったところで、お菓子の空き箱か何かに見える、六角形の黒い塊が目に止まった。ガンディーさんがそれを手に取った。 「これプラネタリウム。こんなでも夜だとけっこうきれいなんだけど、今は明るすぎるね」  窓越しの陽射しが、畳と漫画と長袖シャツの上にまっすぐ黄色い線を引いている。 「四畳半の部屋でプラネタリウム作る曲中学のときけっこう流行りましたよね」  そう言ってから、自分が中学生のときにガンディーさんが中学生だったわけがないことに気づいた。ガンディーさんはプラネタリウムを冷蔵庫の陰に置いて言った。 「小田川はその歌の話してたな。学部のときに流れてたって言ってたと思うけど。これ一緒に作ったんだ」  そのまましばらく2人とも黙っていた。黙っていていいわけがないと(わたる)は思った。 「あの、2人は」  その先にぴったり来る言葉が思いつかない。仲いいんですかというのでは足りないし、付き合ってるんですかというのは、若い男の人と女の人との場合だけに使う気がする。 「付き合ってたよ。別れたけど。フラレた」  付き合うに別れるに、おまけにフラれる、だ。あまりにあっさり立て続けに出てきたので驚いてしまった。もちろん、誰と誰とが付き合ったとか別れたとか誰が誰にフラレたという話は何度も聞いたことがあるけれど、登場人物は必ず男女だったし、だいたい航と同い年くらいだった。同級生の女子が大学生と付き合っているという話を聞いた中3のときも、物理の先生と古文の先生が付き合っていると噂になった高2のときも、正直嘘だと思っていた。 「なに。そう思ってたんじゃないの」 「いえ、そうなんですけど。いえ、過去形とは思ってなかったんですけど」  落ち着いて考えてみれば、いまも「付き合ってる」というのなら、2人があんな風に、目も合わさずにすれ違う必要はなかったのかもしれない。ガンディーさんの左頬も、今ではすっかり青白いだけに戻っている。 「男同士でも付き合ってるって言うんですね」  とてつもなく失礼なことを言ったと思った。 「やっぱ彼氏いたことないんだ」 「は」 「え、男の人好きな人でしょ。だから俺らのこと気にしてくるんだと思ってた」 「え」  思わず膝を崩して後ろにのめった。体を支えようとついた手が馬の新聞を掴んだ。ガンディーさんは細い目を、たぶん限界まで開いている。心底驚いた、みたいな意味の顔だ。 「わりと最初っからさ、目がそうだったもん。人見る目が。だからきっとその話がしたいんだなと思って。だから2人っきりで喋れるのがいいのかなと思って」 「いや、あー、まあ」  そういう目というのはたぶんメロスやサカケンさんや小田川さんを見る目のことで、傍からあれを見られていたと思うとショックだ。ただより大きな問題は、男の自分が男の人を好きだということが当たり前にありえて、しかもその先には付き合うとか別れるとかいうことがあるかもしれないということだ。 「や、でも、男同士で付き合って何するんですか」 「普通のことするよ。デートもしたしエッチもしたよ」 「ちょっと待ってください」 「あ、ごめん、露骨すぎ?」 「そういうことではないんですが」  エッチという言葉はもちろん知っているぞと航は思った。ただそれは女の人のおっぱいやお尻と関係がある言葉だと思っていた。けれども言われてみれば、付き合うとエッチは関係があるかもしれない。 「えっと、いつからですかというか、何でですかというか」 「あいつが店入ってきて、俺が面倒見ることになって。俺そのときからあんま大学行ってなかったから、学科の後輩だって後からわかって。だんだん毎日一緒にいるようになって、夜はあいつの部屋遊びに行くようになって、そしたらいつの間にかそうなってたよ」  そんなに簡単に、人は人と付き合うのだろうか。まだ丸刈りにジャージだったころの葛城の、問題集に視線を落としている顔を思い出した。それに、付き合うというのはうまく行けば、最終的には結婚するということのはずだ。 「えっと、いや、でも、男同士で付き合っても結婚できないし子ども作れないですよね」 「それはそうだね」 「困るんじゃ」 「困る人もいる」  ガンディーさんは窓の方を向いた。唇を持ち上げているけれど笑っていない。触ってはいけないところに触りかけたとわかった。 「ごめんなさい」 「謝ることじゃないよ。俺は全然困らないんだけど、困る人もいたんだよ」  ガンディーさんの青白い顔の中で、唇だけは辛うじて桜色だ。さほど厚みはなくて、航の前でも店に出ているときもいつも両端が上がっていて、小田川さんの前ではまっすぐの線を描いていた。他人の唇をこんな風に見るのははじめてではない。いつか触ってみたいと思っているのを本当は知っていた。後ろに倒れていた体が今度は前に伸びる。指が目の前の唇に向かう。 「ワタルくんさ」  この声を前にも聞いたことがある。 「人の唇触るのはさ、なんとなくでしない方がいいよ」  航の人差し指の先は、人の唇までほんの少しのところで止まっていた。そのままの姿勢でガンディーさんを見た。笑っていないけれど怒っているのでもない。 「キスくらいこの先何回でもできるからさ。好きな人と」  ガンディーさんは体を捻って冷蔵庫を開けた。 「やっぱジュース飲みなよ。あちいもん」  細い首が汗をかいている。この季節に真っ黒の長袖を着ているのだから当たり前なのだけれど、航は少し驚いた。この人も汗をかいたりするんだと思った。もしかしたら涙を流したりもするのかもしれない。それからキスのことを考えた。本物を見たことはないけれど、人間がキスをするのは知っている。ただ、自分もキスをするかもしれないことは知らなかった。

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