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第11話

 成績表は概ね「優」、残りは「良」で埋まっていた。完璧とはいえないけれど思っていたよりはマシだ。メロスは(わたる)の手元を勝手に覗き込んで、やるじゃんと小突き回してきた。  夏休みのどこかで実家に帰ることにした。シフト調整があるので日程は決まっていないけれど、まずは母に連絡した。葛城からメールが来た。どう返信するかまだ悩んでいる。まだ悩んでいるけれど、とにかくもう夏休みだ。  工学部も含めて多くの学部が、お盆までには試験期間を終わらせる。清渓寮ではこの試験期間終了の日程に合わせて、寮生主催のバーベキューをするのが伝統だそうだ。寮の中庭で行われ、会費を払えば寮生でなくとも参加できる。正式な開催時間は昼前から夕方にかけてだけれど、夜まで残る人間も多いらしい。苦情とかこないんですかとB談話室で聞いてみると、それは常識の範囲内でやるのよとカクタさんが言い切った。そして今年の開催日は、みさきやが定休の月曜日だ。  ガンディーさんに個人的なメールを送るのははじめてだったので、なかなか送信ボタンが押せなかった。結局、バイト終わりに明け方まで談話室で騒いで、わけがわからなくなった勢いで送信した。返事は翌日、正確にはその日の夜に来た。久々に顔見せるわとのことだった。  航は野菜係を割り当てられたので、当日は朝から炊事場でひたすら玉ねぎを切った。母の手伝いをしていたので、1年男子の中では包丁使いがマシというのが任命理由だった。  大量のカット野菜を抱えて中庭に出た。ただでさえ暑いのに炭火を炊いているから、外にいた参加者は皆汗だくになっている。飲み物が配られた。航は缶のサイダーにありついた。実行委員長を務める2棟の3年生が乾杯の音頭を取った。サイダーを飲みながら、航は周囲を見渡した。結構な人数だ。思っていたより女子が多い。エミリアもミホさんもスマイルさんもハナブサさんもいる。小田川さんは見当たらないと思う。それだけだ。仕方がないので、網の上にかぼちゃとにんじんを載せて回ることにした。  肉の焼けるにおいがする。急に空腹になってきた。ただ、まだあまり食べるわけにはいかない。野菜を配り歩きながら、人混みの中の顔をひとつひとつ確認する。肩を叩かれて振り向いた。サカケンさんと彼女だった。少しがっかりした自分に驚いた。サカケンさんが肉と箸の載った皿を差し出す。 「焼いてばっかいないで食いな」 「ありがとうございます」  生ピーマンの皿をテーブルに置いて、代わりに焼けた肉の皿を受け取った。脂と焼肉のタレのにおいだ。掻き込んで食べた。サカケンさんの彼女が言う。 「もうお米炊けてんで」  指さされた先に、火から上げられたばかりらしい大鍋が見える。食べたくないわけではない。昨日はまかないの焼きうどんしか食べていない。 「ありがとうございます」  ピーマンを持って歩き出す。顔を見せると言っていたのだから来ないはずはない。また別の人影がこっちに向かってくる。ペラペラのセーラー服を着たメロスだ。ミニスカートから骨の太い脚が伸びている。 「なんだよその格好」 「AKB。もう余興始まるからちゃんと見とけよ」 「見れたら」  手をひらひらと振ってメロスから離れた。来てくれているとしたらどこにいるだろうか。肉を食べているイメージはない。お酒だ。ドリンク配布用のテントに向かう。クーラーボックスから缶ビールを出しているところを見つけた。相変わらず真っ黒の長袖だ。声をかける前に、ガンディーさんは顔を上げた。 「お疲れえ」 「お疲れさまです」 「ごめん久々に昼来たらけっこう捕まっちゃった」 「いえ、忙しいのにありがとうございます」 「いーえ」  ガンディーさんが缶ビールを煽る。今日も喉に汗をかいている。缶から唇を離して、ガンディーさんは笑った。 「試験お疲れ。夏休み楽しみだね」 「はい、9月いっぱいっていうのが不思議な感じですけど」 「そっか高校までは違うんだっけ。夏休みと縁のない生活しすぎて忘れたわ」  まだ大学生ですよねと思ったけれど、言うのも馬鹿らしい気がしてやめた。  突然大きな音で音楽がかかり始めた。安っぽい音質だ。余興が始まるらしい。周りのほとんどの人が、一応音のする方を向く。ガンディーさんはビールを飲んでいる。 「ちょっといいですか」  航が言うとガンディーさんはうなずいた。ピーマンを置いて、手招きをして、2人で1棟に入った。1棟の寮生は予定が合う限りほとんどバーベキューに参加するので、たぶん比較的人目がないと思う。廊下の角まで来たところで立ち止まった。ガンディーさんを見る。 「あの、俺真剣に考えたんですけど、1回キスしていいですか」  ガンディーさんの眼尻がゆっくり開く。唇が少し濡れている。 「ワタルくんさ」  この人は困ったときにこの声を出すんだということがわかった。 「なんであの流れでそういうことになるの」 「いや、ガンディーさんとキスしてみたいなと思って。えと、や、あの、嫌じゃなければですけど、でも」  1回目よりはうまくキスと言えたので安心していたら、台詞の後半で失敗した。ガンディーさんが音を立てて息を吐いたので、胸のあたりがきつく締まって、痛いとも気持ちがいいとも思った。 「嫌ではないけど」  今度は航が溜め息を吐いた。溜め息を吐いてから、この後のことを何も考えていなかったことに気がついた。とりあえず唇同士をつければいいのはわかるけれど、どう動いたらそうなるのかがわからない。ガンディーさんの顔に顔を近づけてみる。ファーストキスで鼻と鼻をぶつけたみたいな冗談を聞いたことがある気がする。目はどのあたりで閉じるものなのか。そもそも閉じるんだっただろうか。 「ワタルくん」  はいと言ったつもりが、唇に唇が重なっていた。目を閉じそこねたのでガンディーさんの顔が見えた。瞼が薄い。そうだ、右だけ二重だった。  気がついたときには、ガンディーさんはもうビールを飲んでいた。そう言えばこの人は缶ビールを持ったままだった。航は自分の唇を撫でた。ガンディーさんが呟く。 「あーびっくりした」  途端に心臓が早鐘を打ち始めた。びっくりしたのはこっちだ。足の裏から汗が噴き出す。ガンディーさんはビールの残りを一気に飲んで、缶を手のひらで潰した。 「戻ろ。育ち盛りなんだからちゃんと食べないと会費もったいないって」  ガンディーさんは航に背を向けて歩き出した。まだ音楽が聞こえる。メロスの踊るAKBだ。時間はちっとも経っていない。ガンディーさんの背中についていく。すぐに中庭に出る。濃い陽射しの下で、ガンディーさんの黒い背中が丸まっている。夏が似合わないにもほどがある。航はその背中を指先で突いた。ガンディーさんが振り向く。笑ってはいない。なんだかぽかんとした顔だ。 「あの、えと、ガンディーさんも肉食べます」 「食うけど」 「取ってくるんでそこいてください」  煙と脂と夏のにおいがする。飲んでいる人もいない人も皆だいぶんできあがっていて、笑っているのも踊っているのも、なぜだか知らないけれど逆立ちしているのもいる。航は1つの紙皿にできるだけたくさんの肉を載せながら、果たしてこの先に付き合うというのがあるのか、それともそれはまるで別の話なのか考えている。

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