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序 そのためだけに生きている
もうすぐ十一月になろうというのに、いまだに暑い。水色の空には細い雲が連なってすっかり秋の色を呈しているのに、汗ばむ陽気が続いている。冬服のジャケットを着る気にはとてもなれない。
だというのに、隣に並んで歩く智颯は登校中もきっちりと制服を着こんでいて、見ているこちらが暑くなる。
「みぃ、ジャケットをちゃんと着ろ。だらしなく見える」
「えぇ。だって暑いしぃ。暑い日は無理して着なくてもいいって、先生も言ってたしぃ」
非難めいた視線を向けられて、瑞悠は頬を膨らました。
「熱中症は確かに危険だが、もうそれほどの気温ではないだろ。それに、お前は体を冷やしやすいんだから、そろそろ気を付けないとダメだ」
惟神である智颯も瑞悠も、風邪を引いたりはしない。だが、冷え性で手足が冷たくなりやすいのは瑞悠の昔からの体質だ。
「スカートも短すぎる。只でさえ素足なんだから、ちゃんと気を付けないと」
「ちぃ、うるさーい。お母さんみたいで嫌」
顔を背けると、智颯がぐっと息を飲んだ気配がした。
「父さんも母さんも、ここにはいないんだ。僕がみぃの管理をしないと、どんどんだらしなくなるだろ」
集落を離れ13課に所属した瑞悠と智颯は今、律と一緒に暮らしている。東京では律が母親代わりだ。律もまた真面目な性格なので、それはそれで煩わしいが、智颯はそれ以上だ。
「だらしなくないもん。これくらい普通だもん。ちぃ、おじぃちゃんみたい」
「肌を露出し過ぎて変な男が寄ってきたら、どうするんだ」
「そんなの全部、薙ぎ倒すもん」
怒り口調の智颯に、さらりと言ってのける。
智颯が溜息を吐いた。
「みぃの自信は危機感を希薄にするな。みぃはもっと女性として節度を持ってだな……」
瑞悠は小さく息を吐いた。
集落の古めかしい因習や慣例からようやく解放されたと思ったら、未だにそれに囚われる人間が一番身近にいる。
(集落の因習が異常だって気が付いていても、身に沁みた常識になっちゃってるのがちぃなんだよね。今時、女として節度を持てとか、セクハラでしかない)
瑞悠とて、その程度の常識は持ち合わせている。過剰に肌を露出するような着こなしをしているわけではない。生活指導の教師に呼び止められたことなど、一度もない。
それでも智颯から言わせれば「だらしない」のだろう。瑞悠を案ずる気持ちからの言葉だとわかっていても、煩わしい。
「それよりさ、二年A組らしいよ」
瑞悠のらしからぬトーンの呟きに、智颯が説教の言葉を止めた。
「みぃに魔手が伸びたら、僕が必ず助けに入るよ。秋津と気吹戸が常にコンタクトを取れる状態にしておいてくれ」
思いもよらない言葉が返ってきて、瑞悠は智颯を振り返った。同時に、智颯が何故、瑞悠の服装を過剰に心配するのか、理解できた。
「ちぃ、間違ってる。伊吹保輔の狙いは絶対に、ちぃだから。助けに入るのは、みぃだから」
智颯が眉間に皺を寄せて瑞悠を凝視した。
理解できないといった表情だ。
「伊吹保輔は男だ。しかも恋愛対象は女の被験体だって情報だ。裏でやっている商売を考えても、みぃが狙われる危険のほうが絶対に高い」
反魂儀呪と協力体制を築いたbugsのリーダー・伊吹保輔の情報は、律を通して怪異対策担当にも降りてきた。
集魂会からのタレコミで「保輔の目的は惟神らしい」というところまでは掴んだ。更には諜報担当の調べで、智颯と瑞悠が通う神代学園高等部の二年生だとわかった。
同じ高校に通う智颯と瑞悠が狙われないはずはないと、連日厳戒態勢が続いている。諜報・隠密担当の花笑の草が数名、護衛に付いてくれているのだが。今のところ保輔が動く気配はない。
「裏でやってる商売って、精子バンクを謳った風俗でしょ? そんなの絶対に理研が絡んでるし、要は惟神の精子が欲しいんだよ。ちぃの方が危ないって」
智颯が顔を赤くして瑞悠の口を押えた。
「そういう言葉を公共の場で出すんじゃない」
確かに今は登校中だが、襲撃を懸念して早い時間に出ているので、生徒はおろか行き交う人もほとんどない。
「保輔は理研から逃げ出して反魂儀呪と組んだんだ。今更、理研に協力するとは思えない」
「そうかなぁ。理研に捨てられただけで、もしかしたら良いように使われてるかもしれないじゃん? 理研と反魂儀呪には縁故があるみたいだしぃ」
「その可能性も、否定はできないけど」
智颯が少しだけ目を伏した。
「保輔の目的がどうであろうと、みぃが危険な目に遭うのだけは、絶対にダメだ。今回の件は、特にダメだ。とにかく、一人になるなよ。僕がいない時は花笑の誰かと一緒にいること。約束だ」
智颯が瑞悠に向かって小指を出した。
瑞悠に守らせたい約束をする時の、幼い頃からの智颯の癖だ。
瑞悠は自分の小指を智颯の小指に絡めた。
「約束するから、ちぃも同じ約束してね。何かあったら、みぃか円ちゃんに必ず連絡すること。破ったら、円ちゃんはみぃが貰うから」
「はぁ? どうしてそこで円が出てくるんだ? 貰うって、どういう意味だ?」
絡めた小指を振りながら、智颯が眉を寄せた。
「だって、ちぃと円ちゃんは恋人になったんでしょ? 窮地に助けを求めない恋人なんか、要らないでしょ」
智颯の顔が耳まで真っ赤に染まった。
「何で、知って……。いや、なんでみぃが円を欲しがるんだよ。まさか、みぃも円が好き、なのか?」
不安そうな顔で問う智颯を眺めて、思わず吹き出した。
「好きだよぉ。けど、ちぃみたいな好きとは違う。優秀だから好きなだけ。ちぃが円ちゃんとバディ組んだら、みぃのバディいなくなっちゃうしぃ。ちぃが要らないなら、貰うってだけだよぉ」
「要らない訳ないだろ。ちゃんと連絡する」
小指を振り切って、智颯が顔を背けた。
「ごめんな。みぃのバディ、僕もちゃんと探すから」
申し訳なさそうな智颯の横顔を指で押す。
「ちぃと円ちゃんがバディになって、みぃは嬉しいんだよぉ。みぃのバディは、そのうち探すから気にしなくっていいよ。何かあれば、みぃも円ちゃんに連絡するしぃ」
「え? 円の連絡先、聞いたのか?」
「聞いた~。すぐに教えてくれたよぉ」
驚いた様子の智颯が、瑞悠の返事を聞いて更に驚いていた。
「あの円が、みぃに自分の連絡先を教えるなんて……。僕だって、結構な時間が掛かったのに」
どうやら智颯にとっては相当に驚きの事実であったらしい。
「ちぃの妹だからってだけでしょぉ。円ちゃん、ちぃがめっちゃ大好きなんだから、もっと自信持ったら?」
むしろ自信をもってやらなければ可哀想だ。
智颯の恋人になってから、円は忍の訓練と花笑の草の訓練を併行して受けている。その上で呪法解析室の仕事までこなしているのだ。
すべては智颯に見合うバディになるための努力だ。
全くやる気がなかった円を変えてくれた恩人として、智颯は花笑宗主であり諜報・隠密担当統括である円の父直々に感謝されたらしい。
「僕は、円に見合う人間、なんだろうか。あんなに努力してくれる円のバディが、僕なんかで……いや、何でもない」
思わず出てしまったんだろう言葉を飲み込んで、智颯が瑞悠に向き直った。
「とにかく、みぃが狙われる可能性は、大きいんだ。気を付けろよ。みぃの身に何かあったら僕は、きっと殺してしまいたいほど、伊吹保輔を憎む」
ギリっと歯ぎしりして、智颯が顔を顰めた。
「それはみぃも、おんなじ。ちぃに何かあったら、みぃは伊吹保輔を殺すよ」
殺してしまいたい、なんて生易しいモノじゃない。智颯に手を出して来たら、確実に殺してやる。それくらいの殺意が既に、瑞悠の中にはあった。
(同じ、ではないかな。私が智颯の総てを守る。私は智颯の陰で、智颯が選ばなかった選択を補填するためだけに存在する。智颯は私の生きる意味だから)
智颯が幸せに生きてくれさえすればいい。瑞悠の望みは昔から、智颯の幸せを守る、それだけだ。
そんな瑞悠の気持ちを、智颯は欠片も知らない。知られないように生きてきた。これからも智颯が知る必要はない。
「みぃは、ちぃが円ちゃんと幸せになってくれたら、それでいいんだ」
「何だよ、急に」
照れた顔で振り返った智颯に、笑って見せた。
「ちぃが幸せなら、みぃも嬉しいの」
いつものように笑って、瑞悠は学校への道を歩き出した。
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