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第59話 久我山あやめの魂

 三階の部屋に梛木はいなかった。  代わりに直桜が目にしたのは、明らかに異常な状態の流離だった。  闇の球体が大きく膨れ上がって、禍々しい穢れが渦巻いている。 「昨日は、こんなんじゃなかったのに」  零した護が慌てて解毒術を放った。  護は昨日、流離の解毒のため、この部屋に赴いていた。一昨日は清人が浄化を行っている。 「一体、何時からこんなんなってんだ。神倉さんはどこ行った?」  清人も護の隣で浄化を始めた。 「閉、部屋の結界の強化。四方と上下を塞ぐよ」  開が紙と筆を執り出して絵を描き始めた。呪符ではない、鳥居の絵だ。開が線引きした絵に閉が色を付けて部屋の四隅と上下に放っていく。  梛木が敷いた空間術に結界が上書きされた。 (すごい……。これじゃ、出られないし入れない)  力の強い者ほど引っかかると思われる結界だ。 「鳥居式の結界は空間を仕切って別空間を作る。神社の鳥居なんかと同じでね。僕らの御先祖が江戸時代は大芝居の看板で役者絵なんかを描いてたから、その名残で絵を使うんだ」  優雅に説明しながらも、開の手元は動き続けている。綺麗な鳥居の絵が、閉に流れて朱で彩られた鳥居が空間の間仕切りをしていく。  あまりの早業に見とれてしまう。 (見とれている場合じゃない。俺も何か、できること……)  出来ることがなさ過ぎて、自分が情けなくなった。  惟神を殺す毒は直桜の神力だけでは解毒できない。結界術に手を出しても鳥居兄弟の邪魔になるだけだ。  直桜は大人しく、護に神力を送り続けた。 「護、神力足りてる? これ以上、送ったら苦しい?」 「いいえ、どんどん送ってください。流離くんの周囲の穢れが濃すぎて、全く解毒できません」 「これ、本当に毒か? 普通に浄化した方がいいんじゃねぇのか?」  清人が疑問に思うのは無理もない。  流離を囲む闇の球体は、中に渦巻く穢れのせいでどんどん膨らんでいく。解毒が全く間に合っていない。  この感じは、覚えがある。出雲で直桜たちの後を追ってきた白蛇の蓮華が放っていた、あの気配に似ている。 「まるで邪だ。穢れよりずっと血と死の匂いが濃い、邪悪な気配だ」  直桜の呟きに、護が息を飲んだ。  何故今、流離にそんなものが付いているのか、見当が付かない。 「俺の神力で浄化してみる。清人、結界でシールド作って」  清人が頷いて、直桜の前に結界の壁を作った。  恐る恐る手を伸ばす。  球体に触れると、黒い闇が触手のように伸びた。触れても、以前のように手が爛れたりはしない。  ほっと息を吐いて、そこから神力を送り込んだ。 「よせ、直桜!」  梛木の声が響いたのと同時に、黒い闇の触手が結界を貫いて直桜の体に伸びた。いくつもの黒い手が直桜の体を球体の中へと引きずり込む。  開と閉が護符を投げてくれたが、全く効果がない。 「直桜!」  護が直桜の体を摑まえる。両手で抱え込むと、黒い触手は護の体まで飲み込んだ。 「護! 直桜!」  清人が攻撃をしている気配がするが、その頃には直桜と護の体は球体の中に呑み込まれていた。  思わず閉じていた目を開く。真っ暗で、自分が目を開けたのか閉じたのかも、わからない。体の感覚がやけに鈍い。だが、護が後ろから腰に腕を回してくれているのだけは、わかった。 (ここ、球体の中か? 流離はどこに……)  最初に触れた時には、拒絶された。  今回は引きずり込まれた。流離が今、何を考えているのか、不安になった。 (あの時の流離は確かに助けを求めてた。なのに、俺を拒絶した。だったら、今は)  流れてくる感情は、悲しくて、辛くて、なのにどこか明るい。  目の前に流離の姿が浮かび上がった。  膝を抱えて目を閉じていた流離がゆっくりと目を開く。肢体を伸ばして、直桜に目を向けた。 「ようやく会えましたね、直桜様」 「流離! やっと解毒の準備ができたんだ。流離をここから解放してあげられるんだ。遅くなって、ごめんな」  流離に向かって手を伸ばす。だがその手は流離には届かない。流離も直桜の手を取らなかった。 「解毒は、もう結構です。僕は心を決めましたから」 「心を、決めた? どういうこと?」  流離が目を細めて手を胸に当てた。 「本当はとっくの昔に決めていたんです。父様が重体で集落に戻った時、僕に神降ろしをされた時、速佐須良姫神が父様しか見ないと気付いた時、直桜様が集落をお出になった時、穢れである鬼をパートナーと決めた時」  後ろで直桜を摑まえる護の体がびくりと震えたのが分かった。 「僕も穢れたら、直桜様がもっと気に掛けてくださったのでしょうか? 直桜様は智颯兄様や僕より、その鬼がお気に召したのでしょう?」 「違います、流離君! 直桜は智颯君や流離君を特別に大切に想っています。私は鬼だけど、穢れだから直桜が愛してくれたわけじゃない」  流離の目が、見たこともないような冷たい色になって、護を睨んだ。 「黙れ、穢れが。気安く僕や直桜様の名前を呼ぶな」  護が言葉を飲んだ。 「ああ、けど今は僕の方が貴方よりよっぽど穢れているから、貴方を穢れと呼ぶのは相応しくない。清浄に憧れる中途半端な穢れ、とでも呼びましょうか」  流離の目が歪に笑む。  蔑視を張らんだ瞳は、とても十三歳の子供の顔とは思えなかった。 「お前は誰だ。流離の体を使って、好き放題やってるのは、誰だよ」  怒りが溢れて、拳を強く握る。  流離が首を傾げた。 「勘違いしないでください、直桜様。僕は流離です。以前の僕は話も出来ず表情すら出せない人間でした。何故だと思いますか? 速佐須良姫神にその程度の力すら奪われていたからですよ」  直桜は顔を上げた。  流離がニコリと笑んだ。 「でも意志はありました。僕は物心ついた頃から、ずっと直桜様が好きでした。一人ぼっちの僕の傍にいてくれた、同じく独りぼっちな孤高の神様。でも直桜様はもう、独りぼっちではなくなってしまったんですよね」  流離が悲しい顔で笑う。 「今の直桜様の周りには、たくさんの人がいる。僕とは違う、その他大勢と同じ人になってしまった。直桜様も、僕を置いて行ってしまった」 「違う、流離、迎えに来たんだ。流離は一人じゃない。これからだって、俺が傍にいられる」 「嘘だ!」  手を差し伸べようとした直桜を、流離が怒鳴りつけた。 「直桜様だけが、僕の味方だと思ってた。直桜様だけは僕を見捨てないと思ってた。けど、直桜様は鬼を恋人にして、仲間を作った。僕の闇に触れた時、直桜様は僕の気持ちを知りましたよね。僕も直桜様のことを、あの時、知ったんです」  流離の目に涙が滲んだ。 (あの時、助けを求めたのに拒絶したのは、今の俺を受け入れられなかったからってことなのか?)  集落にいた頃の、流離が知っている直桜ではなくなってしまったから。だから流離は直桜を拒絶したのだろうか。 「流離、俺は、どうしたらいい? どうしたら流離は、戻ってきてくれる?」  ここで流離を引き留めなければ、取り返しがつかない事態になる。そんな直感が、直桜の脳裏を掠めた。 「僕の欲しい直桜様になってください。そうしたら、僕は直桜様の元に戻ります」 「流離が欲しい俺って、どんなの?」 「いつも独りぼっちの孤高の神様。普通なんて絶対に得られない幻想を追いかける、夢の中を彷徨って生きる可哀想な人、それが僕の好きな直桜様です」  流離が直桜に向かって両手を差し伸べる。  直桜は無意識に手を伸ばした。その手を、護が遮った。 「今の直桜は君が好きな直桜ではありません。そんな直桜は、始めから存在しませんよ。本気で言っているのですか?」  護の声が低く響く。やけに鮮明に耳に残って、意識がはっきりした。 (頭の中がぼんやりして、流離に呑まれそうになった。この感覚、知ってる)  紗月の魂を浄化した時に飲まれた、惟神を殺す毒だ。  あれと同じ気配が、流離の中から流れてくる。 「穢れが生意気に正論を説くなよ。僕はただ、僕が愛したい直桜様に戻ってほしいだけなのに」  流離の目が冷ややかに護を睨んだ。 「流離、心を決めたって、どういうこと? どうして解毒は必要ないなんて、いうの?」  思わず声が震えた。返答が怖くて本当は聞きたくない。  流離がニコリと可愛い笑みを直桜に向けた。 「惟神を殺す毒、そこの鬼と伊豆能売だけだと思っていますか? 僕もですよ」  想定内の答えだが、直桜にはショックだった。 「解毒したら、また俺がどうにかなるから、するなってこと? 違うよね?」  流離が笑顔のまま頷いた。 「流石に、この流れで僕がそんな殊勝な言葉を言うとは思いませんよね。僕は自分から惟神を殺す毒を受け入れた。惟神なんか、皆死ねばいい」  流離の顔から笑みが消えた。 「惟神を生み出す集落も、今の惟神も惟神の神も、皆死んでなくなってしまえばいい。僕から言葉も表情も奪った速佐須良姫神が憎い」  表情のない顔で、流離が直桜を見下ろした。 「どうしようもない穢れに堕ちた僕を直桜様は無視できないでしょう。だから、久我山あやめの魂を僕が引き継いだんです。惟神を殺す毒ごとね。彼女の体は根の国底の国を流離って朽ちて消えましたよ。安心しましたか?」  歳相応の可愛らしい表情で、流離が小首を傾げる。  只々絶句して言葉が出てこなかった。後ろにいる護も同じ様子で息を飲んだ。 「さぁ、どうしましょうか。今の僕は、本当に直桜様を殺せるだけの力があるけど、それじゃ面白くない。僕は、もっと直桜様とこのデスゲームを楽しみたいですから」  流離の手が、直桜に伸びる。  避ける気力も握る勇気も直桜にはなくなっていた。  流離の手を、護が掴んだ。 「生きることはゲームではありません。直桜が君を助けるために、どれだけの準備をしてきたと思っているんですか。久我山あやめの魂も惟神を殺す毒も解毒して、一緒に帰るんです」  流離の表情が明らかに変わった。  表情がない顔に、殺気と嫌悪が浮かぶ。 「離せよ、穢れ如きがこの僕に触れるな」  流離の手を握った護の手が焼けたように爛れる。 「くっ……」  顔を苦痛に歪ませながらも、護は手を離さない。  直桜は護の手と流離の細い腕を掴み上げた。神力を纏った手が護の手を癒し、流離の手を焼いた。 「護を傷付けるな。護は直日神の惟神の眷族の鬼神で、俺の大事な恋人だ。金輪際、穢れと呼ぶことは許さない」  神力が腕を伝って流離に流れ込む。  流離の皮膚が、握った腕から焼けたように赤く爛れていく。 「このまま神力で浄化すれば僕は体も魂も消え失せる。直桜様はやっぱり僕より鬼を選ぶんですね。僕を殺して鬼を救う方を選ぶんだ」 「いいや、どっちも救う方を選ぶよ」  もう片方の手で流離の腕を掴む。  爛れた皮膚が綺麗な白い肌に戻っていく。 「は? なんで?」  顔を歪める流離の後ろが淡く光った。

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