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第1話

 その日、辰は、確かに女を買う為に、廓へ来た訳では無かった。 「ちょいと、おにィさァん。暑い夜だね。暑気払いに、今夜、アチキとあそばなァい?」  酒に焼けたのか、風邪を引いたのか、酷い唆れ声が、(たつ)を呼び止めた。  見れば、遊郭の朱格子の隙間から、ゆらゆらと長煙管でさしまねく、妙に生ッちろい細腕がある。 「ア、いやあァ、俺は…………今日は素見でね。まだ見て廻るんだ。悪いね」 「オマエさんの素見て、朱塗りの格子をかい? 大門の柱をかい?」  遊女は、ヤニ下がったようなタレ目で辰を見ると、にィッと笑った。  時刻で言えば大引け過ぎ。  ありていの客はお目当てを買って登楼してしまい、見世先から遊女の姿も消えている。  当然、格子向こうの遊女達をからかっていた素見の客達も、くたびれて帰った頃合だ。  こんな時間に素見も何も、残っているのは按摩の売り声に、空っぽの朱格子……そして遊女の言う吉原名物『大門』――地獄とこの世をぴしゃりと閉ざす、一つこっきりの出入り口――くらいなものだ。  見て廻るも何も、あったものではない。 「いや、なんか……ソノ、朱塗りが珍しかったモンで」 「朱塗りなんて、お稲荷さんにでも行って、いくらでも見てくればいい。こんな暑い夏だモノ、ついでにちったあ涼しくなるようお願いしてきてくだっせえ」  埓もない辰の返答に、遊女は煙管を一口吸い付けると、そこで一段声を落とし、辰を近くに呼び招いた。 「アチキの煙管、取りなんし。向こうで用心棒気取りの地廻りが、そろそろオマエさんを怪しんでいナっさるよ」  さし出された煙管の先を、辰はちらりと見る。  通り向いの見世の角に、二、三集まった地廻りが、顔を寄せ合い、確かに辰の方を見ていた。  大方、茶屋で遊びすぎて帰りッぱぐれた口だろう。 「すまねえな」  辰は煙管を受け取って、ぷかりと煙を吐き出す。 「そう思うんなら、登楼(あが)ってっておくれなんし。うちの店は見ての通りの小見世でね。素上がり(初めての客が、茶屋を通さずに遊女を格子先から見て廻り、気に入った妓のいる妓楼に登楼ること)だって構いはしないんだ。ホイ、煙管」 「あ? ああ……」  煙管の返却を求められ、辰が煙管を差し出すと、遊女は格子の中から手を伸ばし、煙管ではなく、辰の手首をぐぃと捉えた。  半籬の上に身を乗り出し、辰の耳元に口を寄せて囁く。 「アチキの部屋からは、大門がたいそうヨウ見えおスヨ?」 「……二階かい?」 「オマエさんが、屋根も路地も気にするタマかいネ……アチキは見ての通り、売れ残りのお茶ッぴきだ。助けると思って登楼っとくれよ」  遊女は捉えた手を煙管ごと両手で握り、じっと辰を見る。 「なァ、拝みンす」  どうにも逃げ定めようのないその視線に負けて、辰が音を上げた。 「……あー、わかった。あんたにゃ負けたァ……おいらん、お山は幾つよ? 手持ちで足りりゃあ登楼るが……こちとら訳ありでね……聴かないでくれよ?それこそ窓に草履を置かなきゃならねえ身の上だ。いつ飛び出すかもわからねえ。足りねえからって、借金取りの付け馬付きで、屋根瓦ア蹴ッ散らすわけにゃあいかねえのよ」  遊女が、ヤニ下がったようなタレ目で、再びにィッと笑った。 「山一つ。片仕舞(夜だけ)だから二朱こっきり」 「……見世の若い者に声かけてくれ」 「ホイ、ありがとさん」 「アンタあァ、名前は?」 「孤蝶(こちょう)と言いなンす」  言いながら孤蝶は、辰の手からキセルを抜き取り煙草盆へ置いた。 「で? にィさんは?」 「……辰って、呼ばれてるよ」

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