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第3話
振り返ると、空を見上げる大柄な身体が小刻みに震えていた。笑いを堪えているらしい。ときおり、クッ、という低い声が耳にふれた。
「……背を、こっちに向けて」
思い通りになってたまるか。
月丸は櫂を船底に投げ捨てて男を睨む。
男にとって月丸が恥ずかしがろうとどうでもいいのだ。むしろ狙いはそっちの方なのではないかと、月丸はむっとした。
そもそも、船を戻せといっておいて、髪を結えとは何事か。
人の髪なんて結ったこともないというのに。
それでも構うものかという思いであった。むしろ目一杯へんちきにしてやろう、と。
素直に背中を向ける男の背後に立ち、弛んだ緋の紐を解こうとして、男がその指先を、するりとからめとった。
咄嗟に手を引きぬこうとしたときには、飛沫で湿った指は深く絡み合って解けず、息を呑むほどに美しい瞳にとめおかれて、身じろぎ一つできなかった。
男は月丸を仰ぎ見たまま、煙管を持っていた手をのばす。
沫を触れるような手つきで頬を包みこむと、香木のかおりをまとう指先が、じわりと熱く肌をあたためていく。首の裏に滲んだ汗をまきこんで、髪の生え際をなぞっていった。
月丸を見ているわけではない。
真剣な眼差しは顔の輪郭をなぞっている。それがまた妙な心地になる。しかしこそばゆいと身体を震わせるのも、まるでいやらしい。
舐めるように耳筋をなぞる冷たい指がすっきりとした鼻筋をたどっていく、その朦朧とするようなくすぐったさに、目が眩んだ。
中指が唇に触れ、口もとの黶におりたとき、月丸はようやく男の手をはじきとばした。
肌の中にまではいりこんだ男の指が、秘部を捕らえて恍惚を引きずり出そうとするようだった。
その恐怖に、身体が咄嗟に手をはね除けたのだ。
うねりをまく潮騒の波音が、鼓膜をばくばくとふるわせている。
怖いと思うと同時に、頬は上気してあつかった。
濃厚な砂糖蜜をなめとるように唇をかんでから、月丸は男の視線に気がつく。
「口づけでも、してやろうか」
そのからかうような視線に月丸は汗ばんだ。
慌てて男の顔を押しのけて月丸は船の隅に戻ろうとする。その慌てように男は山のような身体をゆらして低く笑った。
「私が見てきた男たちとは、顔の作りが違う」
「顔……」
呼び止めるような声に、月丸はまさかと目を見開いた。
さては、それをいうためだけに髪を結えと呼び寄せたのか。
見れば、男は目を細めてくつくつと笑っているではないか。
騙されたような気になって、月丸は奥歯を噛んだ。
「普通に、呼び寄せれば良いだろ」
「身近に呼べば呼ぶほど、遠ざかるのだろう。貴様というやつは、そんな男だと」
「勝手なことを」
なにか考え込むような顔付きをして、男はもてあそんでいた煙管をくわえた。膝を抱き寄せ、しだれかかるようにして身体を傾け、ぽつりともらす。
「呼ぼうにも、名前を知らない」
しおらしく瞼をふせる態度に鼻をならす。
通ってくる客には名前を明かすこともあるが、そうでもない一夜限りの相手に一々教えてやる義理もない。
「二度と呼ぶこともないだろ」
芙蓉の花もおちる晩秋である。
夜の空は霜をふらせ、しんしんと凍り付いたように澄みわたる。冬の入りにさしかかった夜半であった。
月丸は船を岸につけると、彼の去った後、ひとりぽつねんと船上に残る自分の姿を、瞼の裏でみた。
月はまだ、中天にかかったばかり。長い夜が、待っている。
一人、寒さに耐えて迎える朝が、どれほど待ち遠しいか。
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