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第2話
「船を戻せ――」
不機嫌な男の声に、月丸ははっとして顔をあげる。
漆をぬり重ねたように艶のある声が、すでに冷静さを取り戻し、軽蔑の色さえみえるようだった。その声が、最中は荒い吐息となって肌にふっていたのだ。
艶美な快感が背筋に走るのを思い出し、みぞおちの辺りがぎゅぅと、引き掴まれるような感覚に鳥肌がたつ。月丸は急いで櫂をとった。
「血が……」
直後に、気怠げに口をひらいた男の言葉を、月丸は聞き逃した。
――血……?
聞き取れた単語に怪我でもしたのかと、一瞬、脳裏によぎったのだが、見れば男は唇から煙管を離し、雪崩れるように背中を倒してくつろいでいる。指を切ったふうでもない。
彼は人の見る目も気にせず、胸元の白い肌をさらして夜空を仰いでいた。
分厚い胸の渓に、玉のような汗がひとすじ、伝っていく。それが真珠のようにかがやきを帯びて、形の良い肉の上をはっていくのだから、月丸はおもわず見入ってしまった。やがて臍の窪みへと吸い込まれていくのを、はたと、気まずい思いがこみあげる。
「顔……異国の、血のようだが」
月丸の顔のつくりのことを言っているらしい。
それほど目立つ顔だろうかと水面を覗くが、影の落ちた水面に波紋が波を打って、さらには月影の下では判別がつかない。日中は笠を被ってほとんど俯いているのだから、容貌をとやかく言う客もいない。
ただ、夜の最中に、ときおり、奇妙な目つきをする客はいたか。
顔のことよりは、非人じみた生き方をそしられることの方が多い。
他人と顔が違うことなど気にしたこともなかった。だからそのまま、とぼけたように返事をする。
「……さあ」
その返答が、気に食わなかったらしい。
男は軽く顔をあげ、威圧するように顎の先で月丸を見やった。
「髪が乱れた。貴様が結え」
「櫂を離せって――?」
背に突き刺さるような視線を感じながらも、月丸はにべもなくいう。
「誰がやってやるか」
断られるなど、夢にも思わなかったのだろう。
二の句が継げずに呆気にとられたまま、男は少しの間かたまっていた。だがすぐに、何か策があるとでもいうように顎に手をふれて、唇の端を歪ませた。
「私の首にひっついて、身体を跳ねさせていたのは、ほかでもないな。はね除けやっても良かったが――」
「……はっきりいえよ」
「善がっていたな」
「……いやなやつ」
歯が浮くような不快感である。事実を言い当てられたことではなく、まるで月丸が自ら進んで乱れていたとでも言いたげな。それを違うと否定すれば、あられもなくからだを震わせ、嬌声をかみしめ、熱い吐息を弾ませていた意味を言わせようという魂胆なのだ。
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