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はじまりの季節
「だから考えてみてよ。決して悪い話しじゃないと思うけどな。ドラマの原作となると本は間違いなく売れるから、得することはあっても損することはない。脚本が心配かもしれないけど、それは慎重に人選すればそんなに失敗することはないだろうしな。|都谷翔《とたにしょう》の名を売るいいチャンスだよ」
常連になっている喫茶店の窓際の席の向かい側に座る編集の|千屋宗吾《ちやそうご》がそう言う。
確かにドラマ化ともなると原作本が売れるのはわかっている。ただ、ドラマ化ということで成功することもあるけれど、原作とは大きく変わってしまうこともある。それが気になって千屋の言うドラマ化の話しになかなかイエスと言えないでいる。
「まぁ不安になる気持ちもわからないでもないけど、どちらに転んでも本が売れるのは間違いないよ」
そうか。ドラマの成功・失敗に関係なく原作本は売れるのか。それは作家にとっては嬉しい話しだ。それでも、それとは別に原作の世界がうまく描かれるかどうかは気になる。それも人選ができるのなら失敗のリスクは少ないのかもしれない。そうした場合、俺が損することはないだろう。真剣に考えてみてもいいのかもしれない。
「もう少し考えてみるよ」
「来週末までには返事を頼むよ。制作側の問題もあるから」
「わかった」
「あ! 2週間後のパーティーきちんと出てくれよ。人見知りだからってぶっちするなよ」
「まぁ、おたくの出版社には世話になってるから出るよ」
千屋の勤める出版社が創立50周年を迎え、その記念パーティーがある。
ほんとは出たくない。人見知りはするし、華やかな場所も苦手だ。それでもデビュー作から、売れるかわからない本を出してくれているという恩があるから出ないわけにはいかない。
「途中で帰るのはいいから。あ、ついでに次作の表紙を頼もうと思っている画家に紹介したいんだけど」
「画家? イラストレーターじゃなくて?」
「んー。メインは画家だな。何気にカメラもやるし、色々なことやってるからうちで以前他の作家先生の表紙をお願いしたこともあるんだ」
「顔見知りなのか?」
「大学時代のバイト先の後輩でダイビング仲間でフットサル仲間だよ。それがお前のファンなんだと」
「会わなくてもいいだろ」
人見知りが強いので、できれば見知らぬ相手とは会いたくない。表紙をやってくれる人と毎回会っていたら大変だ。
しかしダイビング仲間でありフットサル仲間であるとは、相変わらずこいつは精力的に動いているらしい。
実は千屋とは大学時代からの友人だが、大学時代からあちこちに顔を出していたものだ。人見知りの俺とは対照的だ。
「お前のファンだって言ってたぞ。だから挨拶くらいしてやってよ。っていうか会わせるって約束しちゃってるんだけどな」
「は?」
「ちょっと事情があってな。軽く紹介だけさせてくれたらいいから。ほんと1分とか2分だけ時間くれれば。頼む!」
そう言うと千屋は頭を下げる。編集でありながら友人でもある千屋が頭を下げているのを見ると無碍にもできない。お人好しなのかもしれないけれど。
仕方がない、とため息をひとつついて引き受ける言葉を紡いでしまった。
「わかったよ」
「ほんとか! 恩に着る!」
「でも、これが最初で最後だからな。2度はないからな」
「あぁ。今後はしないから。でもな、絵描きとしては才能あるヤツだよ。もちろんイラストレーターとしても。|薬井《やくい》直人って言うんだけど知ってるか?」
薬井直人。画家……。
考えるけれど、聞いたことのない名前だ。
「いや。初めて聞く。その薬井っていう画家の絵を見てみたいんだけど。表紙のイラストでもいいし絵でもいいし」
「他の作家先生の表紙なら長生巧先生の作品で3作描いて貰ってる。今日は持って来てないけど。絵は画集を持って来てあるから見てみろ」
そう言って千屋は鞄から一冊の本を取り出した。
「2年前にうちから出した画集だ」
「長生先生なら同じミステリーだし大丈夫だと思うけど、俺の作品に合うのか?」
「それなら大丈夫。色んなことするって言っただろ? 絵も色んなのを描くから合わないっていうことはないよ。ほんとにマルチな才能持ってるから」
「ならいいけど。じゃあ、これ見させて貰うわ」
「ああ。じゃ、俺はこれで社に戻るわ。締め切り守ってくれよな」
「わかってるよ」
「じゃあパーティーでな」
そういうと千屋は慌ただしく喫茶店を出て行った。
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