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紫陽花の季節に3

 そんなステーキハウスでの食事から2週間後、俺は都内にある画廊に来ていた。  数日前からここで薬井さんが個展を開いているからだ。そして俺は資料本を買いに来たついでに画廊に立ち寄った。  絵画の個展なんて初めて来たが、年配の金持ちばかりかと思っていたら意外と若い女性などもいたりした。きっと絵を購入する人だけでなく、薬井さんの絵が好きな人、ぶらりと目について立ち寄った人と様々な人がいるのだろう。  飾られている絵は一面のラベンダー畑だったり、真っ青な空といった色どり豊かな明るい絵があったかと思えば寂しい海辺や廃工場だったりと、あの画集で見た絵のように様々な絵が並んでいる。  画家はある一定の決まった絵を描く人が多い印象だけど、薬井さんの場合は自由な気がした。そして、それが画家・薬井直人なのだろうと思った。  そんなことを考えながら絵を見ていると肩を叩かれた。 「都谷先生」  振り向くと薬井さんがいた。 「来てくれたんですね。嬉しいです」 「ちょうど資料本買いに来たのでそのついでに。平日なのに結構人がいるものなんですね。すごい。絵もどれもいい。お金があれば買いたいところだけど生憎そうもいかなくて申し訳ないんですが。それよりこんなところで話しをしてていいんですか?」 「関係ないですよ。売るのは画廊さんの仕事だから。俺は飾りです。それより先生に時間があるなら少しお茶でも行きませんか?」 「俺は大丈夫ですけど、お飾りと言ってもここ離れて大丈夫なんですか?」 「ちょっと待っててください」  そう言うと薬井さんは画廊の奥へと一度消えたが、笑顔で出てきた。 「30分くらいですけど休憩貰って来ました。少し先に雰囲気のいいコーヒー専門店があるんです。そこに行きましょう」  薬井さんがそう言ったお店は一本路地を入ったところにある静かなコーヒー専門店だった。  専門店だというだけあって、賑やかというよりは皆静かに思い思いのことをしながら静かにコーヒーを楽しんでいるようだった。  薬井さんが教えてくれるものはハズレがないなと思う。都心でこんなに静かにコーヒーを楽しめる場所があるなんて思わなかった。 「ここ専門店だけあって水出しコーヒーもダッチコーヒーもあるんですよ」  水出しコーヒーはその言葉の通り水で淹れたコーヒーで、ダッチコーヒーは氷で落としたコーヒーだ。氷の溶けた水で落とすために時間がかかる。普通のカフェではどちらも扱っていない。 「ダッチコーヒー……と言いたいところですけど、時間の関係もあるので水出しコーヒーにしておきます。先生はお好きなの頼んで下さい」 「俺も水出しコーヒーで」  自分で決められない女子みたいだが、大体薬井さんのおすすめがはずれることはないし、その薬井さんが頼むのだから美味しいんだろうという読みだ。  それに薬井さんの言うとおりダッチコーヒーは時間がかかるので、時間に制限のある今は水出しコーヒーがいいだろうと思ったのだ。  もし今度来る機会があれば、そのときはダッチコーヒーを頼もう。 「個展はいつまでなんですか?」  水出しコーヒーを注文し、コーヒーを待つ間に何気なく訊いてみる。 「残り5日です。個展が終わったら少し休憩するつもりです」 「どこか行くんですか?」 「遠出はしないけど、カメラ持って紫陽花でも見に行こうと思って。もうすぐ終わるじゃないですか」  そうか。この間薔薇を見たと思ったのに、もう紫陽花も終わるのか。 「先生は忙しいですか」 「今と変わりません。脚本と長編の原稿です」 「ちょっと紫陽花を見に行く時間は取れませんか?」 「原稿があるので、頑張って数時間ですね。原稿を持っていくことになるかもしれませんが」 「なら近場で紫陽花を見に行きませんか?」  近場ならいいかと思い承諾する。 「やった! 先生とデートできますね」  そう言って薬井さんはクシャッと笑った。目尻に笑い皺があるのを見る限り、笑うことの多い毎日を送っているのだろう。そして、そんな薬井さんの笑顔に惹きつけられる。  いや、そんな笑い皺などどうでもいい。デートという単語がこんなときに出てくるのがおかしい。  確かに薬井さんはいい人だと思う。でも、それとは別に日本語がおかしいと思うことがたまにある。  以前の俺の写真が欲しいというのも、俺を綺麗だというのもそうだ。 「男同士でデートはないと思いますよ」 「なんでですか? 好きな人と日時を決めて出かけるんです。デートじゃないですか」  好きな人……。  どうも薬井さんは友人として、ということまで「好き」という一言にくくってしまうようだ。普通その言葉は恋愛感情を伴った相手との場合に使うのだけど。 「では、個展が終わったら連絡しますね」  その後はコーヒーを楽しんで別れた。

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