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「リース、坊ちゃま……」
呟いたと同時、こめかみを擽った柔らかな体温にうっすらと瞼を持ち上げた。薄暗い視界の中、静かにこちらを見下ろす真紅の瞳に気がついて、弾かれたように上体を起こす。
「も、申し訳ございません坊ちゃまっ。私としたことが、ついうたた寝をっ――」
言いながら確認した時計が二時十八分を指していることに気づき、フィルは愕然とした。ただでさえ一日三十分しか会って話せないというのに、あろうことか二十分近く寝過ごしてしまったのだ。
「気にするな。寝不足続きで疲れていたんだろう」
穏やかな声を聞いて、はっとリースへと視線を戻す。
「いえ、そんなことはっ――」
慌てて否定しようとして、しかし、フィルは硬直した。薄明るい月の光に照らされてきらきらと輝くリースの睫毛に、目が釘付けとなる。
「坊、ちゃま……?」
ぼんやりと呟いたフィルを見て、リースは小さく苦笑した。
「どうした。寝ぼけているのか」
「あ、いえ、そういうわけでは……」
気のせいだろうか。てっきり、泣いているのかと思ったのだ。
「こんな時間になってしまってすまない。疲れているのかと思うと、起こすのも悪い気がしてな」
「とんでもございませんっ。私は日々、坊ちゃまとお会いするのを楽しみに生きているのです。もしまた同じようなことがあれば、そのときは迷わず起こしてください」
貴重な三十分、一度もリースと顔を合わさず翌朝になっていたことを思うとぞっとする。フィルは大げさでなく、毎日この三十分のために生きているのだ。いくら睡眠不足だったとはいえ、寝落ちてしまった自分が憎い。
「おまえはいつも俺の寝顔を見ているだろう。たまにはおまえが眠っている姿を見るのも悪くない」
「そんなっ――」
反射的に声を上げたフィルを見て、リースは小さく苦笑した。
「わかっている。次からはちゃんと起こそう」
幼子を宥めるような物言いに、フィルはほっと胸を撫で下ろす。優しさで懐柔されているこの感覚が、もっともフィルを落ち着かせる。
「夢を見ていたのか」
問われ、フィルは頷いた。
「はい。坊ちゃまと初めて出会った日のことを思い出していました」
返答に、ぴくりとリースの表情が揺れる。
「奇遇だな。俺もついさっきまで、おまえと初めて会った日のことを思い出していた」
「え……坊ちゃまもですか?」
本当に奇遇だった。驚いて聞き返すフィルを見て、リースは苦笑する。
「ああ。おまえが初めて俺の部屋の清掃員としてやってきた日のことだ。あのときおまえは、俺に一輪の赤い薔薇をプレゼントしてくれたろう」
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