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その夜、深夜二時を迎えて目を覚ましたリースは、フィルの手元を見るなりゆるりと瞬いた。
「フィル、それはどうした」
静かな問いに、フィルはしばし口を噤む。数十秒の時が流れ、ゆっくりとそれをリースへと差し出した。
「殺してください」
じっと目を見つめて、懇願する。月の光に照らされて、手に持ったナイフの刃が鋭い輝きを放っている。
「……おまえは今日、俺に薔薇をプレゼントしてくれると思っていた」
呟くリースに、焦りはない。暗い寝室に、ナイフを持ったペニンダと二人きり。もっと恐怖を抱いて然るべき状況だというにもかかわらず。リースはいつも通り、凛として落ち着き払っている。
「薔薇なら用意していました。……でもそれは、坊ちゃまに手向けるためのものではありません」
リースには全てお見通しだ。フィルが今日、こっそりと薔薇を買ってプレゼントしようと考えていたことも。フィルが今、なぜその薔薇ではなくナイフをリースへと差し出しているのかも。全て知ったうえで、欠片も動揺を顕にしない。
「ウォーレンに聞いたのか。……話さないでいてくれるよう頼んだんだが、荷が重かったのかもしれないな」
「直接は聞いていません。数時間前、部屋でクラウスに打ち明けているのを偶然耳にしました」
事実をありのまま伝えると、リースは「そうか」と頷いた。依然として、フィルの差し出すナイフには見向きもしない。
「もしその偶然がなければ、私はこの先一生、悔やんでも悔やみきれない後悔を負うことになっていました」
語気を強めて言ったフィルを、リースは無言で見つめる。その瞳には一切の迷いがなくて、ナイフを握りしめる手に力がこもった。
「……今、私の手にあるのが一輪の薔薇だったなら、坊ちゃまはそれを受け取ってくださいましたか」
手元にある薔薇ではないそれを見下ろして、フィルは問いかけた。
リースは答えない。何の躊躇いもなくリースが薔薇を受け取ってくれるだろうと思っていた少し前までの自分が、あまりにも愚かしい。
「私には、殺める価値もないでしょうか。私の命では、坊ちゃまを救うことができませんか。私は坊ちゃまを、誰よりも深く愛しています」
生まれて初めて口にした言葉だった。
王子と執事。エーナとペニンダ。天と地ほど違う身分差に隔てられながら、それでもフィルは、リースを愛していた。どれだけ身の程知らずと罵られようと、馬鹿にされようと、誰よりも一番にリースを愛し、リースに尽くし通すのだという自負があった。
フィルをそんなふうに生かしてくれたのは、他でもないリースだ。
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