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瞬間、心臓が止まったかのような感覚を覚えた。
「あの世に旅立つって……そりゃどういう意味だ、ウォーレン。リース様は一日三十分、アイル様と入れ替わりで生きていけるんじゃねえのか」
焦った声でクラウスが訴える。フィルは瞬きさえ忘れて、呆然とその場に立ち尽くした。
「……リース様が一日三十分限定で元の体に戻れるのは、まだ悪魔との契が完全には成立していないからだ。悪魔との契が完全に成立するのは、儀式を行った次の満月の夜――リース様の場合、それがもう明後日だ。悪魔との契を破棄するのなら、この期間内にある儀式を行う必要があるが……全てをお伝えした上で、リース様は未だにその儀式を実行されていない。そして恐らくは、このまま最期まで……」
口を噤んだウォーレンへと、クラウスが追及する。
「儀式の内容は何だ。言い方からして、今からでも実行しようと思えばできることらしいな。生きるか死ぬかの問題だってのに、リース様はなぜそれを実行しない。自分の命より大事なものなんか、この世には存在しな――」
「本当にそうか?」
遮って、ウォーレンが静かに問いかけた。
「おまえには本当に、自分の命より大事なものが存在しない? 自分が助かるためなら、他のどんなものでも犠牲にできる?」
「それは……」
クラウスの言葉に、迷いが生じる。フィルはすぐにそれを否定することができた。
フィルには自分の命より、大切なものがある。もとい、大切な人がいる。その人のためなら死んでもいいと、もう何年も前からずっと思い続けていた。どころかその人のために死ねるなら、それが本望であるとさえ――
「俺にはできない。自分が生き延びる代償に、最愛の人を殺め、生贄に捧げるなんて……。俺には、絶対に……っ」
毅然と話していたはずのウォーレンの声が、そこでふっと途切れた。前後して聞こえてきた啜り泣くような声を聞いて、全身から力が抜けていく。ぐらりと体が傾くのを、すぐそばにあった壁に手をついて何とか持ち堪えた。
最愛の人を殺め、生贄に捧げる――。それが悪魔との契を破棄する儀式の答えなのだと、確かめなくても理解できた。
部屋からはもう、ウォーレンの啜り泣く声以外何も聞こえてこない。
自分がその場にいない前提で話される内容を盗み聞くことの恐ろしさ。かつてリースが言っていた言葉の意味を、身に沁みて実感した瞬間だった。
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