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4「揺れる」2

「ねえ、俺ケイタに振られたんだよ。アイツ結婚するんだって。レイさん、ケイタが女と付き合ってたの知ってた?」 「えー? ううん、アタシは知らないわよ。それ本当なの? あの子女ダメじゃ無かった?」  そう言いながら、レイさんは俺の隣に座った客のためにロックグラスを取り出し、透明でつるんとしたキレイな氷を入れた。  バーボンのロックを頼んだのかと思いそれをぼんやりとみていると、酒と同じ量のミネラルウォーターが注がれていく。僅かに薄れた琥珀色の液体を、静かに回してそのグラスの中に一体感を持たせると、「どうぞ」と静かにそれを差し出した。 「はあ……。やっぱりそう思うよね? 俺もそうだと思ってたし、俺としか付き合ってないと思ってたんだよね。でも実際は彼女がいたわけでさ」  受け取る男性の方も静かに目で返すのみで、大人の色気が漂う世界がそこには広がっていた。長年この店に通っているにも関わらず、子供っぽさの抜けない自分とは全然違う。思わず見惚れてしまった。 「アタシはケイちゃんもあんたに本気だと思ってたんだけどね。結婚ねえ。何か事情でもあるのかしら」  レイさんはそう言って、今日のバイトスタッフに「さっきの持って来てもらえる?」と声をかけた。今日は俺の大学の後輩の三崎くんが入っている。  バックヤードにいた三崎くんは、乳白色に輝くプレートの上にキレイに盛り付けられたラップサンドを持って来てくれた。そして、俺が土曜の夜に一人でいることに驚いたのか、大きく目を見開きながら「お、お疲れ様っす」と言うと逃げるように去っていく。 「なんだよ、俺の顔に何か付いてんの?」  見てはいけないものを見たような態度をとる三崎くんに、思わず不満の声をぶつけてしまう。あんな風に逃げられるくらいなら、指をさされて笑われた方がマシじゃ無いか。惨めさに苛まれるよりは、辱められた方がよっぽど楽に決まってる。 「ビッチが珍しく一人だから驚いたんでしょ? 後輩にあたらないのよ」 「ビッチって呼ぶなよ! ……その通りだけどさ」  レイさんは俺が欲しがっている言葉を、その中でも最も傷つけないものを選んでぶつけてくれた。おかげで少し気分を変えられる。 「そうやってさあ、本当に好き者なわけでも無いくせに、強がって遊んでるふりばっかりしてるから、本命逃しちゃうのよ。ちょっとは慎ましくやんなさい。もうそろそろフラフラするのもやめておかないとね。働き始めたら、新しく恋人探す暇なんか無くなるわよ」  俺がケイタに本気だったことにレイさんは気がついていて、そのケイタとセフレになったことで本気なわけじゃないアピールをしようとしていたことも見抜かれていた。実は、そのことをレイさんから何度か注意されたこともある。  でも俺は、もう誰にも捨てられたく無かった。だから、ケイタに入れ込んでないふりをして、俺に選択権を持たせてくれる人を選んでセフレが複数いる状態を続けていた。だって彼はビッチな俺を望んでいたんだから仕方がない。  ケイタに負担をかけずに、好きな時に会えるように努力した。会ってもらえたら喜んでもらえるように、キレイでいるように頑張った。そうまでして繋ぎ止めようとしていた本命は、いとも簡単にするりとこの手を逃れていってしまった。  残ったのは、本当は一途なのに選択肢を誤ってしまって、ビッチだという評判だけが一人歩きしていく未来が決まってしまった、バカなネコだ。今日だけで何度そう思っただろう。 「……わかってるよ」  耳の痛い言葉にふいっと顔を逸らす。その耳に、カランと氷がグラスに触れる軽い音が飛び込んできた。音のする方には、ハーフロックを飲み込む横顔が見えた。 ——ハーフロックで飲んでる人って、ここでは珍しい気がするな。  あまりactでは見たことがない雰囲気を醸し出していたその男性は、カッチリとしたスーツを着こなし、物思いに耽っていた。  俺は見慣れない顔だったけれどレイさんとは顔見知りのようで、時折短く言葉を交わしては、笑顔を覗かせている。そのふわりとした顔が見える時に顔を出す幼さに、少しだけ興味が湧いた。 ——いやいや、振られたばっかだろ。  いつもの俺なら、ワンナイトしたいなと思ったのなら、簡単に手を出していただろう。  ただ、今はそれをためらってしまうくらいに、失恋した事実をしっかり胸に刻みたいと思っている。それくらい、俺はケイタを好きだったのだと気がついてしまった。  胸の奥の方に、小さいけれど存在感の大きな棘があった。それは、見えそうで見えないのに、しっかりと痛む厄介なものだ。痛みに耐えかねて抜いてしまいたいと思うのに、そこには手が届かない。ただそれに近いところを、ガシガシとかきむしるようにもがく事しか出来なかった。 「はい、これこの方が差し入れして下さったの。びっくりするくらいたくさん持って来てくれたから、たくさん食べていいわよ。ちゃんとお礼だけしてね」  そう言われて出されたのは、さっきレイさんが言っていた『早木さんが持ってきたラップサンド』だった。つまり、隣の男性は早木さんなんだろう。それなら納得がいく。  早木さんは、この近くて数点飲食店を経営している実業家だ。俺はこれまであったことが無かったけれど、この界隈では有名な人だった。 「早木さん、ですよね? 俺もお裾分けしてもらいました。いただきます」  ママはわざわざラップサンドを食べやすいようにカットして、ピンチョスピックを刺してくれていた。俺が口元を汚さずに済むようにとの配慮なんだろう。  こういう細かい気遣いをしてくれるのに、豪快に背中を押してくれたりもする。この人のこういう温かいところが、この店の人気の一つだ。こうやって気にかけてくれる人がいるから、毎日を頑張る力をもらえる。  ピックを一つつまんで持ち上げ、早木さんへそれを見せながら会釈をする。すると、早木さんは俺を見てとても温かい笑顔を返してくれた。 「ええ、どうぞ召し上がってください」  その早木さんの笑顔は、ダウンライトの温かい色味を纏って輝いていた。思わず胸の奥がぎゅっと縮むような痺れを感じる。それは手の届かなかった深い場所にある失恋の棘を、優しく溶かしてしまうような甘さを孕んでいた。

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