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5「揺れる」3
これまで実感しないようにしてきた孤独感に急にさらされてしまったからか、その温もりに触れたくて仕方がなくなっていた。
——でももしこの人にフラフラとついていってしまって、万が一恋に落ちてしまったら……、そして振られてしまったら……。
きっと俺は立ち直れないだろう。苦い思いをしたばかりなのだということを自分に言い聞かせ、手元のサンドイッチの一つを口にした。
「んっ! うまっ! すごい、なんかいい香りがする。それに……野菜の音が気持ちいいくらいに歯切れいい」
数種類あるのはわかっていたけれど、どれもなんの変哲もないサンドイッチのように見えた。それなのに、口に入れた途端にこの立派な紳士がお土産に持ってくる理由がわかった。こんな小さな食べ物の中に、食べた人の心を震えさせるようなパワーが満ちている。
「俺そこまで食に拘りがあるってわけじゃないんですけど、これ今まで食べた中で一番美味いです。味も食感も元気が出るものばっかり揃ってる。俺、歯触りがいい野菜が大好きなんです。それに、なんかハーブとかじゃなくて、野菜自体がいい匂いする!」
それを一口食べただけで、落ち込み気味だった事実がまるで無かったかのように、気がつくと嬉しい気持ちに包まれながら、ひたすらに口を動かすようになっていた。
ここにはいつも相手を探しに来ているから、あまりがっついて何かを食べることがない。でも、目の前にある愛らしい食べ物たちは、俺に食べられたいと訴えているように見えて仕方がなかった。
それはまるで、飢えたネコが可愛がってくれる相手を探している時に似ていた。寂しくて、可哀想な……。
「気に入っていただけました? はは、すごい食べっぷりですね。若さだなあ」
無心になって食べ続けていると、早木さんがそんな俺を見て嬉しそうに笑っていた。その顔を見て、はっと我に返る。レイさんがこだわったおしゃれなバーで無心になってがっついている俺。あまりにもこの場にそぐわない。
「あ、すみません、なんかみっともなくガツガツ食べちゃった。でも、本当にうまいですよ。素材とか技術とかももちろんすごいんだろうけど、あれかな、五味五色が揃ってるからですかね? そうなってると、体が求めるものが満たされるから、文字通り満足感が違いますね」
「……料理が好きのかな? 感想がとても流暢だね」
早木さんは、さっきよりもまた少し幼さの増した笑顔で俺を見ていた。皿に盛られていた分はもう一気に平らげてしまっていて、そんな俺を見て微笑む姿を見ていると、急激に恥ずかしさが込み上げてきた。
「あ、えっと……」
思わず真っ赤になって答えに窮していると、レイさんが近くに寄ってきて俺の頬をおしぼりで拭いながら、
「口先だけは一丁前なのよー。ほら、偉そうなこと言うくせに顔汚してるわよ! なんのためにピック刺してあげたと思ってるのよ。人の好意を無にしないで!」
と弄ってくる。
「ごめん。あんまり上手かったからさ……」
「口八丁なのか。さすが医学生だね、頭がいいってことだろう? 頭が悪かったら、適当なことでもそうすらすらとは言えないよ」
楽しそうに笑う早木さんとレイさんの姿を見ながら、俺は受け取ったおしぼりで頬を拭く。寂しいはずだった土曜の夜を、今こうやって笑って過ごせていることがとても嬉しいと感じていた。
『渚、愛してるよ』
でも、頭がいいかどうかはさておいても、嘘の言葉がスラスラ出てくる人はいる。俺はそれを昨日思い知ったばかりだ。
——言葉なんて、信用ならないよ。
そう考えると、自分が今言った言葉が、全て意味をなさない物になってしまったような気がしてしまう。折角上向き始めていた気分が、また少しだけ沈み始めてしまった。
思わず込み上げるものがあって、それを堪えるためにグッと唇を噛んだ。レイさんがそれに気がついたようで、小さくため息を吐く。
「渚、今日はもう帰りなさい。ちょっとお客さんが増えてきてるから、アタシも愚痴に付き合ってあげることが出来ないし。一度家でちゃんと泣いておきなさい」
急に涙を浮かべた俺のことを、早木さんは怪訝そうに見ていた。レイさんが小声で俺に話しかけているからか、何も言わずにただ見守ってくれている。
確かにレイさんの言う通りに、一度ちゃんと泣くべきなんだろう。でも、そうしてすっきりしたとしても、その後に自分がどうなるのかがわからなくて、それがすごく怖い。
親が俺を見捨てた後も、悲しいけれどその気持ちと向き合えなかった。だからいつもセフレを絶やさず、その感情が溢れ出ないようにしてきた。もし今これをきっかけにそれを閉じ込めていた蓋が開いてしまったら、俺はその悲しみに押し流されて消えてしまうかもしれない。
「やだ……、今一人になったら、俺どうなるかわかんないよ」
こんな小さなきっかけで、五年分の不安が一気に溢れ出てしまった。涙が一粒膝に落ちてからは、もうどうにもならなくなってしまいに溢れてしまって、止まらない涙をずっと手の甲で拭きながら、子供のように泣いてしまった。
「ねえ、三崎くーん。悪いんだけどさ、カウンター……」
レイさんがバックヤードにいる三崎くんに声をかけた。俺を送るために、その間カウンターを三崎くんに任せようとしているんだろう。でも、彼はまだカウンター業務を一人でこなすのは難しい。今日の売り上げを手放してまで、俺を送ってもらうのは忍びなかった。
——どうしよう。でも、涙が止まらない……。
レイさんは俺にとっては母のような人だ。そんな人に迷惑をかけるなんて、失恋の痛みの比ではない。そうは思っているのに、誰かに一番大切だと言ってもらえないという事実が、どうしても辛くて体に力が入らない。
どうしたらいいのかがわからなくて、ひたすら涙にくれていると、突然早木さんが何かを決したような顔をして立ち上がった。
そして、俺を抱えるようにして、すっと立ち上がらせてくれる。その手は力強いのに無理な力は入ってなくて、身を預けてしまいたくなるような安心感に満ちていた。
「渚くん……でいいのかな? 歩けるかい? 僕が君を家まで送るよ。……レイさん、それでいいですか?」
「えっ?」
早木さんはそう言って立ち上がると、スッとカードを取り出した。レイさんはしばらく目を丸くして黙っていたけれど、実際手が足りていないこともあってか
「じゃあお願いしようかしら。渚、今は早木さんに甘えさせてもらおう。ね?」
と言って俺の頭優しく撫でてくれた。
「……いいの? お客さんなのに。迷惑かける……」
「働いてる店で毎週のように堂々とナンパしてた人間が、今更何を気にしてるのよ!」
そう言ってケラケラと笑ながら会計を済ませ、早木さんのコートを持ってきてくれた。袖が通せないから仕方なくその大きな肩にそれをかけると、レイさんは「よろしくお願いします」と小さく頭を下げてくれた。
早木さんはレイさんへ優しく微笑みながら「はい。では、また来ますね」と言い、俺の肩を抱くようにして外へ連れ出してくれた。その手はとても暖かくて、触れた瞬間にまた体が悲しみを吐き出そうとした。
「うっ……」
冷たい空気の中で流れる涙は、すぐに冷えて顔を刺すように冷やしていく。
「ほら、タクシーはすぐそこだから、着くまでこの中に入ってなさい。冷え切ってしまうよ」
早木さんは俺を抱き寄せる腕に力を込めて、それまでよりも更に近くへと引き寄せた。そして、その大きなコートを開くとその中へ俺を引き入れ、そっと包み込んでくれた。
その暖かな抱擁に抗えるはずもなく、気がつくと俺はケイタのことなど考える隙も無いほどに、早木さんに夢中になっていた。
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