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7「怖いくらいに」2

「あの時って……本当にあったことがあるんですか? 俺そんなに記憶力悪くない方だと思うんですけど、全く覚えてないですよ」  俺はまだ学生だ。いくつも事業を抱えているような大人と出会うことなど、そうそうある事じゃない。だから、本当に会った事があるのなら覚えているだろう。それなのに、早木さんは、俺がその時かなり彼を批判していたと言っては苦笑いをする。  どうやらちゃんと話したのはその日だけのようなのだが、俺はかなり失礼なことばかり言っていたようだ。 「一番怒られたのは、品が良ければ人を傷つけることはないと思い込んでるってことだったかなあ。逆に言葉が荒いと全てダメって思ってたことがあって、そういう表面的なことで人の全てを判断しちゃいけないって、すごく叱られたんだよ」 「俺があなたを叱ったんですか? 嘘でしょう?」  こんなにきちんとした大人を、当時高校を卒業したばかりの子供が叱っただなんて、考えるだけで恐ろしいことだ。恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。でも、早木さんは被りを振って 「ううん、君の言うことは正しかったんだよ」  と言った。 「俺ね、その日恋人と別れたばかりだったんだ。相手があまりに束縛するから、仕事に支障が出始めてね。しばらくは我慢したけど、それも限界に来て……うっかり差別的な発言をしてしまったんだ。『だからひとり親の家庭の子はダメだ』って。そしたら、君が猛烈に怒り始めたんだよ」 「え? それって、あの、俺がバイト始めた頃の……」 「そうだよ。俺もまだ院を出て二年くらいの頃で、会社勤めをしてたんだ。その帰りにactに寄ってて、君はまだバイトに入って一月も経ってなかった頃のことだね」 『さっき多様性がどうとか話してましたよね? 本気でインクルーシヴを語るなら、下劣な愚民どももまとめて愛してやれないとダメだよ、王様』  早木さんの言葉を聞いて、ずっと記憶の底に閉じ込めていた黒歴史が目の前にバーっとスライドのように蘇ってきた。その頃の俺は、丁度母に見捨てられた時期で、多様性を語るくせに人を見下した論調を繰り返す人種は、全てが敵に見えて仕方が無かった。 「あんたみたいな人は、消えたくなるほどの寂しさや、自分じゃ努力したってどうにもならないものを抱えてないから、そういうことが言えるんだって言われてね。似たようなことは何度か言われたことがあったけれど、君の言葉にはとてもショックを受けたんだ」  当時の自分はあまりにも幼稚だったと思っていて、出来れば忘れたいとすら思っていた。まさかその時貶してしまった人に、俺は慰めてもらおうとしていたのかと思うと、自分の図々しさに吐き気がしそうになった。 「俺、その後レイさんにめちゃくちゃ怒られました。俺だって早木さんのことなんか何も知らないはずなのに、あんたも他の誰かとあの人をまとめて見てしまってるんじゃないのって言われました。それこそ、多様性のかけらも見れてないわよって」  タクシーは速度を落とし始めた。大きな交差点の信号が赤で、そろそろ変わりそうなタイミングだった。後続車がいないことを踏まえて、ブレーキを踏まずに済むようにしているのだろう。  それまで光の帯のように見えていた景色は、一つ一つの明かりの色や形までもがはっきりと見て取れるようになる。同じものを見ているはずなのに、こんな風に見え方は変わる。  見えているものが形を変えるのではなく、見ている方の認識によって変わるだけで、人の目はそういう意味では案外当てにならない。目の前の上品なスーツを着ている紳士は、その頃はもう少し冷たい印象だった。  青白い肌に黒いサラサラな髪が印象的な人だったように思う。ただし、言われてみれば、大きく変わったところがあるわけでは無い。でも、同じ人物だとは到底思えないほどの柔らかさが、目の前のこの人にはあった。  それだけは、受け取る側の問題だけではなく、彼が意識して変わった証拠だと言えるものだろう。 「そんなに印象が変わったら、気がつけませんよ。ほぼ別人レベルに違うじゃないですか」  タクシーは完全に停止する事なく交差点を抜けていく。再びスピードを上げていくために、アクセルが踏み込まれていき、手を握り合ったまま不安定な姿勢をしている俺たちは、その重力に誘われるようにシートに倒れかかった。 「わっ!」  彼は俺の方へ身を乗り出していたので、そのまま倒れ込んだ拍子に、俺に覆い被さるような形になった。その近さに戸惑っていると、 「それは良くなったということでいいの?」  と、俺の髪を優しくかき上げながら訊く。 「格段に良くなったと思う。あの時が悪すぎたのもありますけど」  暗い車内で、今一番欲しくて仕方がない優しい温もりを目の前にぶら下げて来るような人に、悪い印象なんて持てるはずが無い。髪に触れている手を気持ちいいと思っている時点で、俺はもう引き返せなくなっている。 「そうか、良かった。五年かけて、ゆっくり自分を変えていったんだ。いつか君に似合うようになれたらと思ってね」 「いやいや、さすがにそれは嘘でしょ? だって、その頃俺が誰かとくっついてたらどうするつもりだったんですか」  シートベルトがあるから、もうこれ以上は近づけない。ギリギリと立つ音が、俺たちにそれ以上はダメだと言っている。でも、心はもう近づきたくて仕方がなくなっていて、このまま飛び出して抱き合いたいくらいだと叫んでいた。  早木さんもそう感じているのか、ずっと俺を見つめたまま目を逸らす気配が無い。自分を振った男に操を立てる必要も無いのかなと覆い始めていた頃、再び運転手のおじさんに沈黙を破られた。 「お客さーん、このあたりですよね。あのコンビニが指定だったでしょ?」 「ええ、そうです。支払いどうなってるって言ってました?」  タクシーは減速してコンビニへと入っていった。そして、敷地の隅の方へ停車すると、おじさんは予約の内容を端末で確認し始めた。 「確か交通費として精算するからって、店のカードでの支払いになってたよ。ほら、やっぱり」  ピッピッピと軽快な電子音を響かせながら端末を操作しているおじさんは、そう言って後ろを振り返り、俺たちに満面の笑みを見せた。手にはカードからの支払いが確認された旨を印字した領収証があった。 「交通費? 俺を送るのは仕事ってこと?」  早木さんはその領収証を受け取ると、おじさんに向けて軽く会釈をする。そして俺に向き直ると、優しく微笑みながら言った。 「ああ、違うよ。俺ね、今はactのオーナーなんだ。レイさんと共同経営者になったんだよ。ちょっと前に経営が危なかった時があったの知ってるでしょ? あの頃相談を受けてたんだ。で、結局俺が共同経営を持ちかけたんだ。これから先も、あの店をずっと残せるようにね」  そう言ってタクシーを降りると、俺に手を差し伸べた。その手を躊躇いなく掴んだ俺は、タクシーを降りて彼の前に立つ。 「あれ? 俺んちに帰ってたんじゃ無かったの?」  握った手を引いて、早木さんはどんどん歩いていく。そこは貧乏学生には縁が無いような、大きなホテルだった。 「あの、どこへ……」  早木さんは、ロビーを抜けるとフロントを通らずに、そのままエレベーターホールへと向かった。少し気になったのは、フロントスタッフが彼に会釈をしていたことだ。お客さんにするというよりは、もっとフレンドリーなものに見えた。 「俺、ここに住んでるんだ。五年間海外を渡り歩いてたから、まだ家がちゃんと決まってないんだよ。実家はあるんだけど、そこには兄の家族が住んでるからね。しばらくここにいることにしたんだ」 「ホテル暮らし? 本当にそんなことする人いるんですね。俺みたいな貧乏人には信じられない」  毛足の長いふかふかな絨毯を踏みしめながら、エレベーターが到着するのを待つ。あまりにも自然にしている彼を見ていて、一瞬忘れかけていたけれど、俺はこの人とまともに会ったのは今日が初めてなのだった。  それを考えると、こんなに簡単にホテルに連れて行かれていいのだろうかという思いが、頭の中をぐるぐると回り始めた。いつものビッチスタイルなど頭から吹き飛んでしまうくらいには、早木さんに良く思われたいと思い始めている。 「あ、いや、だから! なんで俺はここに来てるんですか?」  到着したエレベーターに先に乗り込んでボタンを押した彼は、俺の顔をじっと見ていた。そして、少し意地悪そうに口の端を持ち上げる。 「だって、一人になりたく無いんでしょ?」  そう言ったまま、何も言わずにただ微笑んでいた。  ここから先へ進むかどうかは、自分で決めろということなのだろう。ずっと甘いことを言い続けながら、こんなことをされたらついて行きたくなるに決まってる。  やり手の実業家なのだから、そうやって人の気持ちを手玉に取るのは得意だろう。そういうところが嫌いだって、あの時話していたはずなのに、結局されるんだなと思ってしまい、俺は少し興醒めしそうになっていた。 「自分で決めろってこと? 後腐れなくするための保険ですか? それなら俺は帰るよ。今日はそういうつもりは無い……」  腹が立ったから、そのまま走って逃げようとした。二股をかけられて振られた次の日に、また誰かに適当に扱われるなんて最悪だろう。胸が痛んで、涙が溢れそうになって、その場に少しでも止まりたく無かった。  でも、俺の体は後ろから伸びてきた手に、捉えられてしまった。そのままエレベーターの中へと飲み込まれると、優しくて甘くて勝手なことばかり言う唇に捕まり、逃げられなくなってしまった。

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