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8「怖いくらいに」3
「ンっ……」
目の前で景色が狭まっていくのを見送ると、そのまま二人でエレベーターの中へと倒れ込んだ。早木さんは俺を抱えたまま勢いよく壁に叩きつけられてしまう。俺の方はというと、少しも動けないほどに思い切り抱きしめられていたからか、衝撃一つ感じずに済んだ。
不意に長い腕に体を絡め取られて、少しも自由が効かない。それなのに、そのことに対しての嫌悪感が全く無かった。絶対に逃すまいという強い抱擁には、壊れ物を扱うような優しさも含まれている。そして、ここに俺がいることが信じられないのか、その存在を確かめるようにして熱い手のひらが俺の輪郭を辿っていった。
「は、あっ……んっ」
俺はアウターはニットジャケットしか着ていないから、手が滑る度に肌に甘い刺激が伝わってくる。まるで計算されているように、俺が欲しい強さを彼は与え続けた。
「んんっ……、あっ!」
滑る手は、時折敏感な部分に触れていく。吸い付くようにくっついた体に、触ることを許して欲しいと言いたげな刺激を与えていく。
ただ、俺がたまらない気持ちにさせられるのは、抱きしめる力の緩急とそのリズムだった。それはなぜか俺をどんどん昂揚させていく。すり寄せられる感覚とそれが絶え間なく俺を蕩けさせた。それがどうにも不思議でならない。
言葉を発することなんて出来る訳もないのに、まるでその動きだけではっきりと告げられているみたいだ。ずっと好きだったという言葉に決して嘘は無いと、悲痛なまでに必死に訴えている。
「んっ、んっ、ふ、……あっ」
繋がった唇が、絡み合う舌が、触れ合う全てがそう言っている。拒もうとすればするほどにそう思い込まされてしまい、気がつけば俺は夢中になっていた。
「……渚くん、着いたよ」
彼がそう告げると、エレベーターは音もなく止まり、滑らかにドアが開いた。早木さんはあっという間に俺を抱え上げると、颯爽と歩き始めた。
「うわっ! ちょ、ちょっとまっ……」
俺を抱き上げても平然と歩く姿に、胸が甘く疼いた。自分のことを預けられる存在に慣れていない俺は、こういうのにとても弱い。嬉しくて彼の胸にしがみついてしまった。
「さすがにペントハウスとかに住めるほどの金持ちじゃないんだ。着くまで落ちないでね」
そうは言っても、このフロアには扉はそんなにたくさんあるわけじゃない。それだけで、俺には縁のない場所であることくらいわかる。
しかも、エレベーターに乗り込む時に、キーを差し込んでいるのが見えていた。つまりここはエグゼクティブフロアなのだろう。それくらいは、学生の俺にでもわかる。三つある扉の一番奥に辿り着くと、ロックが解除される音が聞こえた。そのまま俺は、部屋の中へと吸い込まれていく。
「ねえ、ちょっと待って……」
ただ、ずっと引っかかっていた。碌に話もせず、ただ五年も片思いをしていたという人が、初めてまともに会話した日に、こんな大胆なことをするんだろうか。俺には、どうしてもその事が信じられなかった。
もしそれを信じてここで関係を持った後に、何かの賭けだったなんてことがあったら、俺は一体どうしたらいいんだろう。どうしてもそういうことを考えてしまう。
俺だって最初からビッチだったわけじゃない。そうやって騙されたり揶揄われたりして、だんだんそういうフリをするようになっていったんだ。それでも、痛みに慣れたわけじゃない。だからどうしてもその不安を払拭させたくて仕方がなかった。
「待って、ねえ、まっ……」
ほんの少しだけ彼の体を引き剥がし、落ち着かせようとしてその顔を覗いて驚いてしまった。その顔は涙に濡れていた。美しい顔の中に、幾筋もの水跡が乾く間も無く次々と描かれていく。
「な、なんでそんなに泣いてんの」
ほとんど話したことのない人間のことを、なぜここまで好きになれるんだろう。俺にはそれがどうしてもわからなかった。たとえ早木さんが話していた事が事実だとしても、それだけでここまで好きになるということは、どうにも信じ難い。
「俺と話したのって、その時だけなんでしょう? それでそこまで入れ込むのって、なんでですか? 見た目が好みとかにしたって、その思いの強さはちょっと怖いよ」
そう口に出してしまうと本当に空恐ろしくなってきて、思わず顔を顰めてしまった。すると彼はまた俺をぎゅっと抱き寄せた。今度は抱きしめるというよりは、体をピッタリとくっつけるようにして、お互いを引き寄せ合うようにしている。
「ああ、そうか、そうだね。どうしてここまで思いが募ったのかを知らないと、それは怖いに決まってる」
俺を抱きしめたまま早木さんは笑っていた。彼が笑うたびに、胸に声が響いてくる。深くて優しい声が耳と胸から伝わって、じわじわと広がって俺を揺らした。
「俺たちは五年間全く会わなかったわけじゃないんだ。俺は海外を渡り歩いてはいたけれど、拠点は日本に置いたままだったから、一時帰国する必要が出てくる。その度にactに顔を出して、君がスタッフとして働く姿や、客として楽しそうにしているところを見てはいたんだ。でも、俺から接点を持つのはどうにも難しくて、誰かと君が話している姿をただ眺めてるだけだったんだ。いつかはきっと話しかけようって思いながら、自信を持ってそれが出来るまでに、気がついたら五年も経っていた。あまりそうは思われないけれど、結構小心者なんだよね、俺」
そう言って気弱そうに笑った。
「だから信じられないんだってば。そんな奥手な人だったら、今のこの状況なんてあり得ないでしょう? 初めてちゃんと話したようなものなのに、いきなり俺のこと連れ込んでさ。結局は俺のこと抱こうとしてるでしょ? それはワンナイトの関係になっちゃうやつでしょ? それでいいの? それなら……んぅっ」
俺の抗議も聞き終わらないうちに、早木さんはまた俺の口を塞いだ。両手を押さえられ、壁に縫い止められたままさっきとはまるで違う優しいキスをする。
ゆっくり触れて、吐息を漏らしながら優しく吸う。それが離れた時に鳴る音が、耳に飛び込んで来た。
「あっ……」
俺の唇が、体が、細胞までもが喜ぶような、深くて優しくて、倒れそうなほどに甘い口付けが降ってくる。触れる度に心が持っていかれそうで、身体中から力が抜けてしまいそうだった。
「俺の本性を今知られてしまうと困るんだ……きっと君にとって俺は恐ろしい男だと思う。いつかは嫌われると思ってる。でも、少しの間でいいから、俺のことを好きになって欲しいんだ。だからごめんね、言葉よりも、心よりも、先に君自身を手に入れさせてもらいたいんだ」
「……どういうこと、それ」
キスで完全に蕩けさせられてしまった俺は、その場に座り込んでしまった。体の全てが熱くなり、口をぽかんと開けたまま短く息を吐き出すのに必死だった。
欲が高められてしまって小さく震えている。目の前にあるウォールミラーに映る自分の顔は、もう完全に彼に抱かれることを期待しているものへと変わっていた。
——どんなに望んだって、ケイタはもう手に入らないんだし。
そう考えると、ほんの少しだけ胸の奥が痛んだ。ただ、もうそれすらもどうでも良くなりつつあることにも気がついていた。
誰よりも俺自身が、誰かに好かれるのに理由なんかいらないと思っている。理由などわからないけれど、ただ好きなのだと言われることを、俺は強く望んでいる。
どうせ俺のイメージはビッチなわけだし、相手も俺と触れ合うことを望んでいる。もし捨てられたら傷つくだろうけれど、もしかしたら本当に理由なく愛してくれるのかもしれない……そう考えていると、妙に心が決まってしまった。
「早木さん」
俺は、目の前に立って俺を抱き抱えようとしている男の首に手を回した。そして、下から誘うように覗き込んで小さく告げた。
「そんなに言うなら、きっと俺が喜ぶことをしてくれるんだよね」
自分の中にあるビッチへのスイッチをしっかりオンにした。彼の喉元が下がるのを見て、それを答えだと判断する。そのまままた口付けようとする彼を制して、ネクタイを掴んでベッドルームへと誘った。
「ほら、早く連れていってよ」
少しでも傷が浅くて済むように、誘われて乗るんじゃなくて、俺が誘ってやったんだという形を作り上げる。寂しくてかわいそうなネコの、なけなしの意地だった。
ベッドの上に二人で倒れ込むと、もう一度ネクタイを引いて彼を引き寄せた。そして、今度は俺の方からキスをして、
「朝までに、あんたのことを好きになれるようにして。そのままずっとそばにいて」
理由なく自分を愛してくれる人が手に入るかもしれない。でも、その人が離れていくと今度はどうなるかわからない。でも、もう二度とそんな人が現れないのだとしたら、この人に愛してもらえたらいいんじゃないだろうか。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
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