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第6話

『作業に没頭し過ぎて、昼飯が今になっちゃいました』 『買い物ついでに、話題になってるコレ、飲んできました』 『中村さんってパソコン持ち歩いたりします? 今パソコンケース探してるんですけど、何か良いやつあったりしません?』  体を重ねたあの日を境に、他愛もないメッセージをひたすら中村へ送り続けた。時には写真も添えた。相手は律儀に返信をくれて、でもだいたい2回ほどラリーしたところで会話は終わってしまう。それでも何か話題を見つけては、スマートフォンを手に取ってメッセージアプリを開いた。  そうして、虎視眈々と次の機会を狙っていた。 『自炊してみました』  2、3人用鍋の写真も撮って一緒に送る。豚肉と白菜、長ねぎ、もやし、にんじん、えのきに豆腐とありったけの具材をとりあえず詰め込んだだけだが、市販のキムチ鍋のつゆで煮てしまえばそれなりの見栄えになった。  「コンビニ飯ばっかりだと体に良くないよ」と中村に言われ、途端に自炊する活力が湧いた。我ながら本当に現金だと思う。ただ、食べることは好きなのだが、料理をすることには興味が湧いたことがない。思いつきで調理を始めるには器具や調味料、そもそもスキルも足りていない。とりあえず食べたい物の中から今自分が作れるものをAIに相談した結果、この鍋に辿り着いた。  熱々の白菜を口いっぱいに頬張り、はふはふしながら食べていると、思いの外すぐに返信は届いた。画面を開きつつ時刻を確認する。そろそろ21時になろうかというところだ。 『美味しそう。今日もかなり冷え込んだし、良い選択だね』 『中村さんは晩飯もう食べました?』 『まだだよ。スーパーもまだ開いてるし、明日休みだから何か作ろうかな』 「明日、休み…………」  その四文字に目が留まり、箸も止まる。  明日は一日部屋にこもって編集作業をする予定だ。スケジュール的にはまだ二日ほど余裕があるので、一日押してしまっても大きく影響することはないだろう。 『明日は何する予定なんですか?』  あわよくばとすかさず訊ねてみると、意外な答えが返ってきた。 『本屋巡り』 「本屋?」  思わず声に出てしまった。書店で働く彼が本屋を巡るというのは、すなわち。 『それって、仕事ってことですか?』 『仕事半分、趣味半分ってとこかな』  仕事なら諦めがつくが、半分は趣味なのか。顎を擦りながら、しばし考え込む。 『趣味もかねてるってことなら、俺もついて行っていいですか?』  何とも強引な主張だ。スマートフォンを片手に、怪訝な顔をして立ち竦む男の姿が目に浮かぶ。  それから15分後。大いに戸惑ったであろう末に『いいけど、井上君にはつまらないと思うよ?』とのメッセージが届いた。熱い鍋のおかげですっかり上がっていた体温がさらに上昇する。箸を置き、意気揚々とキーボードをタップする。 『大丈夫です。中村さんと一緒なら、何でも楽しいんで』 『調子がいいなぁ』  仕方がないと笑みを浮かべているだろうか。そんな姿を想像しながら、俺はぺろりと夕飯を平らげた。  電車内の液晶ディスプレイに、バレンタインイベントの広告が流れている。水族館でカピバラにハート型のリンゴをプレゼントできるみたいだ。家にいても、外にいても「ハッピーバレンタイン」という文字がどこからともなく目に入ってくる季節だ。  ここ数年はあいにく縁が無かったけど、今年はどうだろうか。  中村は甘い物が好きだったりするだろうか。  地下を走る電車の窓に映る自分へそんな問いかけをしていたら、降車駅に到着した。  昼過ぎのターミナル駅は老若男女、たくさんの人が行き来していた。中村の話ではこの駅の周辺に書店が3軒もあるという。  改札を出てすぐに彼を見つけた。ロングコートも相まって全身真っ黒な出で立ちは会社帰りの姿とあまり変わらない。「お疲れさま」という挨拶に味気なさを感じつつ、早速1軒目へと向かう。  駅直結の商業施設内にあり、フロアの半分を占めていた。棚が低く、店の奥まで見渡せて広々としていた。 「ここは手書きのポップが名物なんだ」  そう話す彼と店内を一周してみると、本当に至る所にポップが飾られていた。どれも手書きで、ジャンルによってフォントや色合い、文字の大きさにも気を遣っているようだった。中村に案内されてビジネス書の棚へとやって来ると、『ポップの書き方』という本に「これで私も書けるようになりました!」というポップが添えられていた。なんとも説得力があって思わず手が伸びた。こういう広告宣伝は動画編集においても役立ちそうだ。 「ちょっとこれ、買ってきます」 「えっ。それなら電子でも出てるよ」 「せっかくなんで、記念に買って行きます」  「記念……?」という呟きを背に、そのままレジへと向かった。  一時間ほど滞在した後、今度はそこから10分ほど歩いた所にあるビルへと向かった。6階建てで全フロアが書店だと言う。この時代にビル一棟丸々「本屋」なんてものがあるとは知らなかった。 「上から順番に見て回るから、退屈になったらあそこのカフェで休んでてくれていいからね」  店前で圧倒されている俺を気遣いつつ、中村は早々と中へ入って行った。はぐれてしまわないよう慌てて後を追いかける。  書籍はもちろん、店内や客の様子にも丁寧に目を配るその背中を静かに眺める。必要に駆られてということもあるのだろうが、それにしても仕事熱心な人だ。  中村はおもむろにビジネス書の棚の前で足を止めた。手を伸ばし、棚から本を1冊手に取った。1軒目では本を手にする素振りもなかったので、何が彼の気を引いたのか単純に気になって覗き込む。 「『板挟みに疲れたら』って…………」  思わず声に出てしまった。中村へと視線を移すと、気まずそうな目がちらりと俺を見遣る。 「いやぁ、最近こういうタイトルが目に付いちゃうようになってね……」 「店長ってやっぱり大変なんですか?」 「大変っていうか、まぁ……色々ねぇ……」 「でも、疲れてるんですよね。休めてますか、ちゃんと」 「休めてるよ」 「本当ですか? 今日だってこんな所にいるのに?」 「休みの日じゃないと、なかなかこうやってゆっくり見て回れないんだよね」 「休むって意味知ってますか? 『休息を取る』ってことですよ?」 「確かに。そうだね」  ジョークに思わず笑ってしまうような、そんな軽さで聞き流されてしまった。  これは、彼のことを「仕事熱心」だと称賛してよいものか。彼に必要なことが別にあるのではないか。  本を棚へと戻したところを狙って、男の腕をむんずと掴んだ。そのままエスカレーターへ引っ張って行く。 「中村さん、ちょっと休みましょう」 「えっ。まだ、来たばっかり……」 「俺は疲れた時に糖分摂取するんですけど、中村さんは甘いものとか好きっスか?」 「え? あぁ……まぁ、うん……」 「よかった。ちょうど近くにいいお店があるんです。この時間だと、混んでるかもですけど」 「わ、わかった……! 行く。行くから。とりあえず腕を……」  そう指摘されて、チラチラと向けられる他人の視線に気が付いた。一言詫びて、彼と並んで、ある場所へと向かった。  大通りを、駅とは反対の方向へ10分ほど歩き、そこから路地へと入った。さらに角を曲がったところで人が列を成しているのが目に入って来た。10人ほどだろうか。平日ということもあって比較的列は短い。 「ここ、パンケーキの店で美味しいんですよ。ちょっと待たないといけないけど」 「……こ、ここ……?」  建物を見上げる中村の表情は固い。白を基調としたレンガ造りのカフェは、男女問わず若者達で賑わっていた。 「こ、こは、さすがに…………」  身を引こうとした彼の後ろに女性三人が並んだ。同時に一組が店内へと通される。 「パンケーキは嫌いですか?」 「……嫌いってわけじゃなくて……こういうお店にオジサンは……」 「パンケーキに年齢制限なんてありませんよ」 「………………」  店の入り口が近付くほど、中村はどんどん萎縮していってしまう。話を振っても上の空で、どうやらこういうスイーツ系の店には来たことが無いようだ。20分ほどして店員に呼ばれた頃には腰が引けていて、そんな相手の背に手を添えながら店の中へと入った。 「…………オシャレなお店だね…………」  向かいに座る相手は、悪いことなど何ひとつしていないというのに声を顰める。緊張がピークに達していそうな姿がもはや微笑ましく見えてきた。 「……だ、大丈夫かな…………僕なんかがここにいて……」 「中村さんはパンケーキ顔だから馴染んでますよ」 「パンケーキ顔ってどういうこと?」  中村は怪訝そうに眉を寄せた。柔らかく優しい甘さのパンケーキっぽいと伝えてみようか。でも、今の様子だと、ここでそんな話をしようものなら居たたまれなくなって店を飛び出してしまいかねない。せっかくのパンケーキデートを楽しむためにも、話を転換させることにした。 「とりあえず、注文しましょ。 何にしますか?」  中村はメニュー表もろくに見ることなく、「普通のでいい」と言い張った。そのためメープルバターのかかったクラシックなものをチョイスし、俺はバレンタイン限定のフォンダンショコラを頼んだ。  店員が去ると、彼はグラスを手にし、少しばかり水を口に含んだ。その唇が固く引き結ばれる。  俺も真似するように水を飲みながら、それを解く方法を探すため頭の中を引っ掻き回す。 「……どこもかしこもバレンタイン一色ですね。1軒目の書店でも入ってすぐのところにコーナーがあったじゃないですか。あそこに料理本だけじゃなくてビジネス書まで置いてあったの、気づきました?」 「…………あぁ……。確かに。あったね」 「どんな内容なんですかね。地味に気になってるんですよね」 「……そうだな……業界にとっては一大イベントだし、時代の変遷もあるだろうから面白いかもしれないね」 「中村さんはどうなんですか?」 「どうって?」 「チョコ、たくさんもらってたりするんですか?」  中村はきょとんとした顔から一変、噴き出しながら「ないよ」と答えた。 「そんな。ない、ない」 「職場でも?」 「今はもうそういう慣例もないからね」 「慣例じゃなくて……」  「女子大生に迫られてたんでしょ」と訊ねてしまいたくなるのを堪え、グラスを呷って物理的に口を塞ぐ。  会話が途切れると、相手の目線はまたあちこちに飛んでいく。どうしても周りの様子が気になってしまう彼に、少しばかり意地悪を言いたくなった。 「ちなみに俺、チョコレートならトリュフチョコが好きです」 「ん? 何?」  聞きそびれてしまった、と彼の目が俺を映す。頬を緩めながら「俺、トリュフチョコが好きです」ともう一度主張するも、不思議そうに首を傾げられてしまう。 「いやぁ、『欲しいなぁー』って」 「…………何言ってるの…………」  小声で一蹴されてしまった。素っ気ない言葉とは裏腹に、突き放すような冷たさは感じられない。垂れた眉はどちらかというと困惑しているように見える。  どうしようもなく緩んでしまう口元を何とか引き結んでいるところへ、パンケーキが運ばれて来た。  限定のパンケーキはチョコレート生地のパンケーキに贅沢なほどチョコレートソースがかかっていて、濃厚な甘い匂いが食欲をそそる。嬉々として食べ進めていれば、中村が何やらまじまじとこちらを見つめている。 「食べます? ウマいっすよ」  皿を差し出すが、手だけでなく背まで反らせてお断りされてしまった。どうやら食べたがっているわけではなかったようだ。 「甘いものが好きなんだね」 「学生の頃はそうでもなかったんですよ。働き出してフリーになったばっかりの頃、結構寝る時間とか削って編集やってたんですよね。食事も適当で。時々無性に甘いものが食べたくなってちょこちょこ食べてたら、なんかいつの間にか好きになっちゃってたって感じで」 「へぇ……そうだったんだ」  大した話でもないのに、何かが刺さったらしい。感銘を受けるように中村は深く相槌を打つ。 「中村さんは甘いものなら何でも好きですか? チョコとか、あんことか」 「甘すぎるものはあんまり得意じゃないかな」 「なるほど…………」  手元に置いていたスマートフォンをタップする。中村が不思議そうに問いかけてきた。 「何してるの?」 「ちゃんとメモしておこうと思いまして。大事なことなんで」 「大事って……」  返事に困り果て、もはや言葉も続かない。お手上げ状態だと言わんばかりに相手は肩を竦めた。  パンケーキに舌鼓を打ち、腹だけでなく胸までいっぱいに満たされてすっかり油断していた。いざ店を出ようとしたところ、歳が上だというだけで中村はここの食事代を出すと言って聞かない。そもそも無理矢理引っ張って来たのは俺だからと言っても聞く耳を持たず、さっさとレジカウンターへと向かってしまう。  財布を開くその手を何とか止めなければ。  中村の傍に滑り込み、そっと耳元へ吹き込む。 「せっかくのデートなんですから、ここは俺に払わせて下さいよ」 「デッ……?!」  恰好がつかないと不貞腐れた振りをする。一応、周りには配慮して声音は抑えたが、それでもレジカウンターに立つ女性店員の意表まで突いてしまったみたいだ。瞬きすら忘れ、財布に手を突っ込んだまま停止する男に代わって、そそくさと支払いを済ませる。頬を赤らめた店員に笑顔で会釈し、中村の背に手を添えて店を出た。 「…………あのねぇ…………」  重々しく口を開いたわりに、声色からはそれほど怒気は感じられない。 「だって、出すって言ってるのに聞かないから……」 「だからって、言って良いことと悪いことが」 「あれ、店長?」  背後からそう声を掛けられ、中村と一緒になって振り返る。大学生と思しき女性2人が立っていて、そのうちの1人が快活そうに笑みを浮かべる。 「もしかして、店長も『チル』でお茶してたんですか?」  油断していて、咄嗟に頭が回らなかったようだ。「あ、あぁ……」と中村の口から音が漏れる。横目に様子を窺えば、頬を引きつらせている。心なしか青ざめているようにも見受けられる。  職場のアルバイトの人だろうか。改めて女性を見遣ると、ぱっちりとした愛らしい目が興味深々でこちらを見つめていた。  俺は姿勢を正すと、にこりと笑みを返した。 「初めまして。甥の翔太って言います」 「あっ、甥っ子さんなんですね。私、早川って言います。店長の職場でアルバイトしてるんです」 「そっか。叔父さんの職場の人でしたか。一瞬、どんな関係の人なのかなって思っちゃいました」  冗談の中に本音をこっそり混ぜ込んで、意地の悪い視線を投げた。中村は口を噤んだまま、それを受け止めるのが精一杯といった様子だった。  俺は再び早川と向き合う。 「早川さん達も『チル』目当てですか?」 「はいっ。限定のフォンダンショコラを食べに来たんです。すっごい美味しいって聞いて」 「やっぱり。実は俺もなんですよ」 「そうなんですか……!」  早川だけでなく、隣の女性も目を丸くする。 「俺、こんな見た目なんですけど、甘いものが大好きで。どうしても食べてみたくって、無理言って叔父さんについてきてもらったんです」 「そうだったんですねぇ。店長、優しいんですね」  我ながら無理矢理すぎるシナリオだとは思ったものの、彼女達はすんなりと首肯してくれた。  俺達の背後では店に並ぶ人の列がどんどん伸びていたようだ。早川は話を切り上げると、隣の女性と一緒に小走りで列へと向かって行った。  後ろ姿を見送りながら、そっと胸を撫で下ろす。隣の中村は未だ棒立ちの状態で、さすがに心配になって顔を覗き込んだ。 「大丈夫ですか?」  目の前に突然人の顔が現れたためか、相手は勢いよく仰け反った。そのまま後ろへひっくり返ってしまいそうで、反射的に彼の背に手を回す。 「マジで大丈夫っスか?」 「だ、だ、だ大丈夫だからっ。大丈夫っ」  抱き留めた手に体重が全て乗り切ってしまう前に踏ん張った反動で前のめりになった。かと思えば、その勢いのまま歩き出してしまう。大股で歩くだけでは追い付かず、小走りになって彼の後を追う。道なりに突き進んでいく相手は、もはや引き止めないと止まらないのではないか。歩速を緩めることなく十字路へ突っ込んでいこうとする姿を目にして、俺は瞬時に地面を蹴って男の腕を掴んだ。 「危ないですよっ!」  思わず声も張ってしまった。会社員やら若い男女が何事かとこちらを振り向きながらも通り過ぎて行く。一方通行ではあるが、車も通る道だ。よろめいた体に触れないように、でもいざという時には支えられるように手を回す。目の前をバイクが走り抜けて行った。  大きく見開かれた双眸が上目に俺を見つめてきた。目を瞬かせ、半端に開いた唇をゆっくりと動かした。 「……ごめん……」  中村は言葉もろとも消え入るように俯いた。しょげ込んでしまった相手の正面に立ち、向かい合う。 「俺も、大きい声出しちゃってすみません。危なかったんで、つい声が出ちゃって」 「ごめん……ちょっと動転しちゃって……」  手の甲で額を押さえつける姿を見て、早川達の姿を思い出す。 「まぁ……知り合いだとしても、『どういう繋がり?』って感じはしますしね」  とてもではないが外見から俺と中村の接点なんて見つけられないだろう。だからといって親戚という設定で誤魔化せたわけでもないが。 「勝手に甥っ子なんて言ってすみませんでした」  挨拶もろくにできないほど中村は取り乱していた。そんな様を目の当たりにしては、こちらも迂闊に話をすることができなかった。せめてゲームやネット配信をしていることを彼女が知っているのであれば、そっちの線で知人だと言った方が少しは自然だったかもしれない。 「いや…………それは、いいんだ。むしろ謝らないといけないのは僕の方だ」  やけに重苦しい空気を纏っていて、俺は首を傾げる。彼がさらに「ごめん」と謝るので、さらに首を曲げてしまう。  恐る恐る相手は口を開いた。 「………………君の口から、まさか『甥』なんて言葉が出てくるとは思ってなくて…………てっきり、また……」 「……あぁ、俺がまた『何か』言うんじゃないかって思いましたか?」  軽く笑い飛ばすように尋ねたのに、中村はいっそうずるずると項垂れてしまう。前髪も垂れ下がり、目元も隠れてしまった。  「デート」なんて言葉を軽々しく口にしてしまったから、早川に対しても言いかねないと思われたのだろう。これは自業自得だ。 「俺、こう見えても一応空気は読めますよ。……本当は『デート中です』って言ってみたかったですけど」  ちょけた調子でこっそり伝えてみると、中村は上目にこちらを睨んできた。けれども威圧感が足りず、何なら怒った顔も可愛らしいくらいだ。それを微塵も包み隠すことなく、へらりと笑ってみせた。 「今度、本当にデートしませんか?」 「………………あのね…………」  男の眉間に皺が寄る。 「じゃぁ……口裏を合わせたお礼っていう名目ならどうですか?」 「………………狡賢いな…………」  眉間の皺がさらに深く刻まれる。 「『一生懸命』って言ってほしいです。どっちかって言うと」  擦り寄ろうと一歩足を踏み出したものの軽く躱され、中村はすたすたと歩き出してしまう。その後を忠犬よろしく大股でついて行く。 「どこ行くんですか?」  何ともなしに尋ねれば、おもむろに振り返った相手にじろりと睨まれた。 「本屋」  素っ気なく言い放つと、顔を背けるように前へと向き直ってしまう。  怒らせてしまったのは確かなのに、不思議とその実感が湧かない。男の歩調はだんだんと緩やかなペースへと落ち着いていき、気づけば彼の隣を並んで歩いていた。 「ここからだと、どれくらい歩きますか?」 「……そうだな……まだ10分くらいは歩くことになると思うけど……って、何笑ってるの?」  怪訝そうに中村に指摘されるまで、俺は自分がへらへらと笑っていることに気付いていなかった。

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