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第8話
シェアラウンジの2フロア上にレストラン街はあった。その一角の海鮮居酒屋前で中村と合流した。
「どうも」
よそよそしい声色だった。こちらに向かって軽く会釈するものの、目が合わないように視線を彷徨わせている。正月に初めて顔を合わせた時の方がよっぽど愛想も良かった。
「二度目まして」と言わんばかりの態度を尊重したいのは山々だが、「誠さん」と呼ぶ渡辺の前では我慢できなかった。
「お久しぶりです。この間はありがとうございました。ご馳走になっちゃって」
右手で後頭部を掻きながら、意識的に人懐っこい笑みを浮かべる。そうなれば、渡辺もツッコまずにはいられない。
「え、何? 飯食いに行ったの?」
言い淀んでいる相手の代わりに、偶然という運命の再会を果たした話をする。
「すごいなぁ。誠さんの職場でばったり会って、おまけに万引き犯まで捕まえるとか。よく追いかけて行ったね」
「俺、考えるよりも先に体が動いちゃうタイプで」
「あー、確かに。そんなイメージあるな。ホント行動力あるよね」
掘りごたつ式の座敷の向かいで、渡辺はグラスを呷る。中村は彼と肩を並べて座っていて、自ら口を開こうとはしない。テーブルにはアルコールの他にも刺身や蛤の酒蒸しも並んでいるが、それにも手を付けようとしない。
そんな様子に気付いているのか、いないのか。渡辺が隣を見遣る。
「ってか、先月もそういう話聞いたけど、少しは減ってるの?」
直接尋ねられては答えるしかない。小さく息を吐き、彼はようやく会話に加わった。
「……件数としては、まぁ……。前と比べて、まだ防げてはいるけど……」
「歯切れ悪いね」
「それが……逆ギレする人が多くてね……」
「逆ギレ?」
俺と渡辺の声が綺麗に重なった。これまで浴びせられた暴言が脳裏を過っているのか、中村は表情を曇らせる。
「『たかが本の1冊、2冊で煩いんだよ』とか、『金払えばいいんだろ』とか……。どうにも犯罪だって認識してない人が一定数いるんだよ」
力なく嘆息しながら、彼は眉間を揉んだ。理解できず、置いてきぼりにされてしまった男2人はただただ首を傾げることしかできなかった。そんな反応を「当然だ」と言わんばかりに中村は苦く笑ってみせた。
「何て言うか、『スリルを味わいたい』とか、『ストレス発散』とか、そういう感覚で万引きに走る場合もあるらしいんだ。『品物そのもの』が欲しいんじゃなくて、『盗むこと』が目的の、一種の依存症みたいな感じで」
「へぇ……」
またしても渡辺と相槌が重なる。世にそういう依存症があることも知らなかったし、何より中村が知っていることに驚いた。
「中村さん、詳しいんですね」
博識だなと素直に感心したのだが、相手は顔の前で大きく右手を振った。
「全然。そんなことないよ。僕もアルバイトの子に教えてもらって初めて知ったんだ。それで、そういう人もいるのかって思うと……井上君が捕まえてくれたあの教授も」
「え⁉ あの人、教授だったんですか!」
「そう。大学教授なんだけど、他店でも万引きを繰り返してる常習犯で、店によっては出禁にもなってるんだ。それでもやめないどころか、『ストレスが溜まってるんだ! 煩いな!』って怒鳴り散らしてるあたり……もしかしたら、そういう依存症なのかなぁ……」
「だからって犯罪には変わりないでしょ」
すさかさず渡辺は正論を言い放ったものの、中村の相槌は掴みどころがなかった。俺も渡辺の言葉に続くことができず、3人して口を閉ざす。なんだか部屋の空気も幾分か重い。襖の向こうから漏れ聞こえる喧騒はやたら賑やかに感じられた。学生がたまるような場でもないし、労働を終えた人達が羽目を外しているのだろうか。
しばしの沈黙を突き破ったのは「失礼しますー!」という溌溂とした女性の声だった。襖が開き、注文していた鯛の煮付けと天ぷらの盛り合わせが運び込まれる。快活な笑顔を浮かべて去って行く彼女を見て、ふと『チル』で出会った早川の姿を思い出した。あの後、中村から彼女の名前を耳にしないが、甥っ子という設定は結局見破られなかったのだろうか。
「よしっ。じゃぁ、遠慮しないで、井上君も誠さんもどんどん食べて下さい! 今日は俺の奢りですから!」
「え? 僕も?」
「誠さんにはいつも奢ってもらってばっかりなんで、今日くらいは俺に払わせて下さい」
「そう? それじゃぁ、たくさん食べようかなぁ」
「誠さんには一度でいいんで、動けなくなるくらい食べてほしいですよ。ホントに。そう言えば、井上君は誠さんに何奢ってもらったの?」
「……肉っす。気になってた肉バルの店があって、そこに連れて行ってもらいました」
「肉? 誠さん、食べたんですか?」
「いや、見てた。気持ちいいくらい、よく食べてくれたから」
「ははっ。想像できるなー。井上君、ガツガツ食いそうだもんね」
渡辺は知ったような顔をして話を広げ、中村も構うことなく乗っていく。テーブルを見遣れば、一品、一品丁寧に盛り付けされたであろう海鮮料理が並ぶ。もしかするとこの店は中村の好みに合わせて渡辺が選んだのだろうか。ほんの数分前まで涎が垂れてしまいそうなほど美味しそうに映っていた料理たちを、つい睨みつけてしまう。すると渡辺から「海老好きなの? 食べていいよ」とてらいのない笑顔を向けられてしまった。どこまでもお気楽な様子に、もはや二の句が継げなかった。低く唸るような返事を返して、口の中へ海老の天ぷらを放り込んだ。
「いい食べっぷりだねぇ」
とことん呑気な感想を述べる相手を置いて、隣へ視線を移した。ばっちりと中村と目が合うや否や、彼はむせ返りながらグラスから口を離した。そのまま凝視し続けるも、拳を握って口元を押し付けて大きく咳払いした。
「……そう言えば、何か話があるって言ってなかったっけ?」
「あ――……それなんですけど――…………」
渡辺は摘まんだ刺身を豆皿に乗せ、神妙な顔つきで黙り込んでしまった。そんな様子を窺う男の顔を交互に見遣り、少しずつ居住まいを正していく。
これは、単なる食事会ではなかったのか。
渡辺は何度か刺身を摘まもうと箸を動かしたが、結局摘まむことなく、力なく箸を置いた。ガクリと首を折り、項垂れた。
「俺……もうダメかもしれないです……」
声音がみるみる萎んでいく。ついにはテーブルに肘を立て、両手で顔を覆ってしまった。ただ事ではない雰囲気を醸し出していて、自分はこの場にいて良いのか不安になってきた。中村は優しく気遣うように訳を問う。
「……理恵に仕事を辞めるって話した時、絶対反対されるって思ってたんですよ。付き合ってもうそろそろ10年になるって時に『仕事辞めて配信者で食っていきたい』とか、ふざけてんのかって感じじゃないですか。なのに、あいつ『好きだもんね、ゲーム。まぁ、頑張ってみたら』って」
「……それで?」
「それだけ」
「それは……理解してくれたってことなんじゃないの?」
「逆ですよ、逆……! 見限られたんです……!」
指の間から呻き声が漏れる。中村もこの話題自体、想定外だったようだ。彼と再び目が合うと、困り果てたように眉を垂らした。助け船を出せるものなら出したいけれど、状況を整理するための時間と情報があまりにも足りない。
中村も一緒に背中を丸めて、渡辺の表情を窺おうとする。
「どうしてそんな極論になるんだよ。理恵さんとは結婚するんでしょ?」
「もちろん。そのつもりで話もしてます…………ただ、食べていけるようになるまであと少しだけ待ってほしいって伝えてて……今この状態で理恵の親御さんと会うわけにもいかないし……」
打ち合わせで渡辺から感じた並々ならぬ情熱の背景には、恋人との結婚が関係していたのか。彼女との将来が懸かっているのであれば、確かにあの熱量にも頷ける。けれど、10年も付き合っていて未だに籍を入れていないというのは、何か理由があるのだろうか。
「理恵さんは何て?」
中村の声色は寄り添うように優しい。「理恵さん」と呼ぶ口調も随分と馴染んでいた。これまでにも、こうして彼女の相談を受けてきたにちがいない。
渡辺の相談に乗るため、彼は今日会うことを伏せていただけだった。その気があって、2人きりで食事がしたかったのではないかなんて勘繰っていた己が心底浅ましい。冷えたグラスを握り締める指が、結露できゅっと滑る。
少しの間、口を噤んでいた渡辺は重々しく、くぐもった声を漏らした。
「…………『まぁ、そんなに焦らなくもいいんじゃない』って…………」
中村と顔を見合わせる。その目に少し焦りの色が見えて、自分と同じ考えなのかもしれないと思い至る。
彼女のその言葉、あまり期待できないのではないか。
俺達の間に漂う空気を察したのか、渡辺は勢いよく顔を上げた。顔面は悲壮感に飲み込まれ、濁声で叫ぶ。
「やっぱり! そう思うでしょ?! もう結婚する気も無いっていうか……もはや別に相手がいたりするんじゃないかって……。一昨日から出張に行ってるんだけど……そもそも出張ですらなかったら……俺……どうしたら……」
「待て。それはさすがに」
「出張の詳しい話とかって、聞いてないんですか?」
あまりにも話が飛躍していくものだから、俺も口を出さずにはいられなくなった。
「……福岡に一週間……上司と2人で行ってる……」
「上司は、男?」
中村が尋ねると、渡辺はこくりと首を縦に振った。
「連絡は取ってないんですか?」
今度は俺が訊いてみる。相手はガクリと首を折った。
「……福岡に着いたっていう連絡以降、音沙汰無い……」
「単純に忙しいだけなんじゃないですか?」
「…………帰ってきて、『別れてほしい』って言われたらどうしよう…………」
俺の言葉は気休めにもならなかった。最悪のシナリオを妄想して、ついにはテーブルに突っ伏してしまった。アルコールも入っているとは言え、まだグラスの半分も飲んでいない。よほど思い悩んでいるのだろう。
中村はそんな彼以上に、気に病んだ顔をしている。
「そんなこと言わないって。亮に必要なのは、まず理恵さんと話をすることだ。帰ってきたら、ちゃんと話をして」
追随して、自分も何か言うべきなのは百も承知だ。けれど、「亮」という文字が頭の中でリフレインして邪魔をする。
「何て聞くんすか……。『上司との出張は楽しかった?』って?」
「何でそうなるんだ。そうじゃないだろ」
「俺、捨てられるのかなぁぁぁ…………」
中村の声も届かなくなっていく。渡辺はしばらく唸り続けていたが、やがてゆるゆると顔を上げた。その目は据わっていた。
「……今からでも、間に合うか……?」
「何が?」
「プロポーズっすよ……。帰ってくるのは明後日だし、指輪準備して、それで……」
目が点になった。10年もかけて関係を築いてきた相手に、本気でそんな即席のプロポーズをするつもりか。見れば、中村も開いた口が塞がらないようだ。彼もまた見たことがない姿なのかもしれない。狼狽する目がかける言葉を探している。
ただ、血迷う渡辺の姿を他人事として切り離すことができないのは、どことなく自分に似ているからかもしれない。元彼に、プロポーズをした自分も、のぼせ上ってこんな風に血迷っていなかっただろうか。
『……気持ちは嬉しいよ。けど、将来のことは考えられない。翔太とは今の関係がちょうどいいかなって思ってる』
元彼の顔まで呼び起こしてしまう前に、きつく目を瞑った。一息ついて恐る恐る開けば、渡辺はブツブツと何かを呟き、そんな彼の肩を揺すって「しっかりしろ」と声をかける中村がいた。
俺はおもむろに口を開いた。
「プロポーズは、あんまり勢いでしない方がいいですよ。そのまま別れることもありますし」
最大限、場の空気を読んでさり気なく伝えたつもりだ。けれど「別れる」という言葉の威力は凄まじく、渡辺の顔からさらに血の気が引いてしまった。中村も眉を寄せてこちらを睨んできた。
「あ。いやっ、その……実は、俺、前に付き合ってた彼氏に勢いでプロポーズして断られたんですよ。なので、自分の経験上の話っていうか……」
「井上君、プロポーズしたことあるの?!」
渡辺だけでなく中村も目を丸くしている。できれば心の奥底にそっと伏せておきたい昔話ではあるものの、中村には遅かれ早かれ話すつもりではいた。今がそのタイミングなのかもしれない。
「フリーに転身して、大変な時期に付き合ってた人なんですけど。当時は『絶対この人と添い遂げたい!』ってぐらいひとりで勝手に盛り上がってて。それで……まぁ、勢い余ってプロポーズしちゃったんですけど」
「待って、待って。相手って男だよね?」
「そうです」
「男同士って、結婚できないでしょ?」
渡辺はそれだけしか言わなかった。ただ、続く言葉にはすぐに察しがついた。
結婚できないのに、どうしてプロポーズをするのか。する意味があるのか。
赤信号では横断歩道を渡れないでしょ。そんなニュアンスが感じ取れた。もちろん悪気は一ミリも感じられない。純粋に不思議なのだろう。
空気の流れが止まった。また遠くの方から賑やかな笑い声が聞こえてくる。
中村は彼の隣で顔を強張らせていた。その目はどこを見ているのか窺い知れない。俺は努めて飄々と「そうなんですよね」と相槌を打った。
「できないんですよねぇ。でも、やっぱ『この人とはこの先もずっと一緒にいたい』っていう気持ちって湧いてくるじゃないですか。それを確かめ合いたいって感じでプロポーズしたんですよね」
「そっか。……そうだな。悪い。今、俺、すごい失礼なこと言った。本当にごめん」
潔く頭を下げる相手を慌てて制した。俺のような人間もいるのだと知ってもらえたなら、それでいい。
「なので、そんな経験をした身からすると、勢いだけで伝えちゃうとその場で終わるって可能性もあるので、慎重にした方がいいのかなぁと。長い間お付き合いしてきたんだったら、なおさらその方がいいと思いますよ。彼女さんが出張から帰ってきたら、中村さんが言ってたみたいにちゃんと話をしてからでも遅くないんじゃないですか? 渡辺さん自身も悔いが残らない形にした方がいいと思います」
「井上君は後悔してる?」
「プロポーズをしたこと自体は後悔してないです。あの時は本当にそれくらい気持ちもあったし。ただ、今はもう平気ですけど、断れてからしばらくはケーキを見るとメンタルがやられて、そこが大変でした」
「何でケーキ?」
「プロポーズを相手の誕生日にしたんですよ。喜びも倍になるかと思って。そこで用意したのがベタないちごのショートケーキで」
「あ——……なるほど……。ちなみに、何て断られたとかって聞いてもいい?」
「『将来のことは考えられない。今の関係がちょうどいいって』って言われましたね」
「おぉ……それはクるね……」
ボディーブローを食らったみたいに、渡辺は苦悶の表情を浮かべた。そのまま唐突にオーダー用のタッチパネルを手に取ると、「何か呑む?」、「これ食べる?」、「海老天、もう一皿頼もうか」と操作し始めた。中村が止めに入るも、「井上君には腹いっぱい食べてもらいたい」と鼻息荒く主張し、指を止めようとしない。最終的に、土鍋で炊かれた立派な鯛めしまでやって来て、テーブルの上は皿とグラスでひしめき合っていた。
遠慮はいらない。好きなだけ食べてくれ。切実に勧めてくれる渡辺の優しさを無下にはできず、軽く深呼吸して箸を持ち上げた。
渡辺と中村も食事を再開したが、程なくして渡辺は理恵の話を始めた。同じ職場の同じ営業職で、エースだった理恵に渡辺は熱烈なアプローチを仕掛けたらしい。交際が始まって3年後には同棲も開始したそうだが、互いに仕事が好きだったこともあり、仕事優先で働いていたらいつの間にか10年もの月日が経っていたのだという。未だに籍を入れていないのは、単にタイミングを見失っていただけらしい。
馴れ初めを話す内、渡辺自身、10年分の思い出がよみがえってきたようだ。ほろりと涙を流し、「やっぱり理恵とちゃんと話をしてみます」と宣言したところで食事会はお開きになった。
3時間たっぷり食べさせてもらったおかげで腹ははち切れそうだ。重い体を何とか持ち上げ、家路に就く人の流れに乗ってビルに直結している駅へと向かう。3人とも乗る路線が違うとわかり、ターミナル駅の入り口で解散することにした。
「誠さんも、井上君も、今日は本当にありがとうございました。マジで助かりました」
「俺も、成り行きでご馳走になっちゃって。ありがとうございました。めちゃくちゃ旨かったっス」
「また飯行こうな。今度は井上君の話も聞かせてよ。じゃぁ、誠さんもまた」
颯爽とした足取りで雑踏の中に紛れて、その後ろ姿も見えなくなった。
「立ち直ってくれて良かった……」
静かに息をつきながら、中村は行き交う人を眺めていた。俺も肩の荷を下ろす。
「マジでどうしようかと思いました」
「……なんだか、井上君には助けてもらってばかりだな」
彼は前を向いたまま、独り言ちた。
万引き犯を捕まえたり、中村の職場の人間と鉢合わせたり、さらには渡辺の恋愛相談に乗ったり。彼といると毎度何かに出くわしている気もする。上手く乗り切れているかは別として、微苦笑するその横顔を見つめていると、ついぽろりと言葉が零れた。
「中村さんのためなら、いつでもどこでも、すぐ駆け付けますよ」
得意の軽口をどこかへ忘れて、大真面目に告白してしまった。中村は呆気に取られていたものの、不意に含み笑いを浮かべた。
「……それは、高くつきそうだから遠慮しておくよ」
「そんなことないですよ。ちょっと俺とデー」
「じゃぁ、僕も行くね」
こちらの言わんとしていることを察知したのか、遮るように被せてきた。大人しく口を閉じた大男を一瞥し、中村は垂れた目を満足そうに眇めた。その愛くるしさに、思わず両手を広げて飛びつきそうになる。ぐっと指先に力を入れて堪え忍んでいる間に、相手は踵を返して人の波へと消えて行ってしまった。
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