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マスカレード

「おはようございます」    フロアへ出て、バーカウンターの中にいるマスターに挨拶をする。  声に気付いたマスターは、「待ってました!」とばかりに足早に千景のもとへ近付いた。今日のマスターの仮面は赤い大きなハート型でとても迫力があったので、千景は思わず後ずさった。 「チカちゃん、初めてのお客様がチカちゃんを指名してお待ちなの。来てすぐで悪いんだけど、個室に入ってもらえる?」    千景は、店ではチカという名を使っていて、マスターはじめ、ほとんどのスタッフから「チカちゃん」と呼ばれている。親にも子どもの頃「ちかちゃん」と呼ばれていて(今でも時々……)、本名のようなものだし、この歳で「ちゃん」呼びも恥ずかしいと抵抗したのも働き始めた最初の頃だけで、今はもう諦めた。 「え?個室で初来店の方の接客ですか?」 「そうなの。お店に入るのを見かけて気になった子がいるけど、名前が分からないって言われてね……。うちの制服を着てたらしくて。髪型とか見た目の特徴を聞いたんだけど、チカちゃんしか当てはまらないのよ」 「見かけて?いつのことだろう……わかりました」  初めての客をいきなり個室で接客するのは気が進まないが、土曜日のこれからの時間帯は更に客足が増え、店が慌ただしくなる。ハートの仮面で顔はほとんど隠れていたが、マスターが申し訳なさそうな表情をしているのも伝わってきて、千景は戸惑いながらも拒否はできなかった。 「お願いね。何か困ることがあったら、すぐに呼んでね」 「……はい」 (まぁ、何かあったら大声出して誰か呼べばいいか)  マスターは、注文されたドリンクを作りにバーカウンターへ戻っていった。 「マスカレード」は、客の希望があれば、受付でスタッフを指名して一緒にお酒を飲んだりできるシステムであるが、体に触れたり性的な接触は基本的にNGとしている。個室であっても同様だ。個室は3部屋あるが、個室と言っても、カーテンを掛けて目隠しをしているだけである。防音でもないので、中の声はフロアに聞こえてしまう。しかし個室に入ると、あからさまに体を近付けてきて、スタッフの太ももに手を置いたり、尻を触るなどの行為をしてくる客もいる。    千景は、働き始めてまだ2か月ほどだが、酔っ払った常連客に突然キスをされそうになったところを、ドリンクを運んできたスタッフに助けてもらったことがある。他にも、口説かれたり、店外で食事に行こうと誘われたことは一度や二度ではない。  そのため、初来店から個室に指名されると、どうしても身構えてしまう。    個室の前に立ち大きく深呼吸をして、中にいる客に声をかける。 「失礼します。チカです」   「――どうぞ」    若い男の張りのあるはっきりとした声色で返事があった。千景は静かにゆっくりと個室のカーテンを開け、目の前の客に軽く頭を下げた。 「お待たせして申し訳ありません」   「いやいや、マスターに話は聞いたんだけど、僕が無理を言って待たせてもらったんだよ。どうぞ座って」    栗毛馬の仮面を着けている男は、そう言って口角を上げにっこりと笑う。  馬の仮面は、たてがみとピンっと立った耳が印象的で、なかなか本格的でかっこいい。 (仮面を着けていてもわかる。これは不自然な作り笑顔だな)    そう思いながら、千景は客の隣へと座った。

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