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4-3 情
心光の言う通り、その日の夕暮れどき、俺たちはひとつの集落を見つけた。
二、三十軒の家が建ち並び、それぞれ釜戸の煙を上げている。人が住んでいるのだ。俺は不安げに心光を見たけれど、彼は構わず俺の手を引き集落へ入ってしまった。
外にいた村人たちが、俺の姿に悲鳴を上げて逃げ、家の戸を閉めていく。俺はいたたまれなくなって背を丸めていたが、心光は構わず、集落の中心にある大きな家へと向かった。
「おお、お、お坊様、そ、そちらは……?」
村長と思わしき老爺が、まず俺を、それから心光を見て尋ねる。そんな彼に、心光は穏やかに返した。
「見てのとおりでございます。しかし、彼はわたくしと共に仏に仕える者。天と仏に誓って、彼は決して人を傷つけたりはいたしません。どうか、何日かこの集落に滞在させてはいただけませんか? 長旅で彼もわたくしも、少々疲れが出ておりまして……」
「は、はあ……。お坊様が困っていらっしゃるなら、是非お招きしたいですが……。失礼ながら、まことにその……彼を、信じてもよろしいのでしょうか……?」
俺を疑いの目で見つめる老爺に、心光は迷いなく頷いて言った。
「もちろん。彼が人に害を加え食べるのなら、わたくしはここにいないはずでございましょう?」
俺たちは集落のはずれにある、小さな家を借りることができた。時折訪れる、外から来る者の宿にしているそうだ。俺が知らないだけで、僧が旅をすることも珍しいことではないらしい。
宿へ案内される頃には陽も沈みかけていて、俺たちは急いで火を熾し、食事を用意する。俺のことは疑わしかったようだが、村人は親切に食べ物や水をわけてくれた。一部の者は俺のことを好奇の目で見たけれど、すぐ逃げるように帰って行った。
食事が終わる頃にはすっかり夜も更けていた。寝床の準備を心光に任せ、俺は家の縁側に腰かけ、ぼんやりと庭を眺める。
村のはずれであるから、ここから見える景色は山とすすきの原、そして欠けた月ばかりだ。しかし欠けてもなお月は明るく、夜を微かに照らしている。時折流れるそよ風に、すすきが微かな音を立てて波打った。
風が止むと辺りはしんと静まり返る。あるいは、村人たちは俺を疑い、息をひそめているのかもしれない。
こうして冷遇を受ければ、ようやく俺の中の違和感がはっきりと理解できる。彼自身が特殊な存在とはいえ、心光はどうして鬼である俺を恐れないのだろうか?
「なにか考えごとですか? 蘇芳」
見透かされたのか、寝床を用意していた心光が尋ねてきた。そのひとつひとつ丁寧な仕草を見ながら、俺はややして口を開く。
「心光は、どうして俺を恐れない? 村の者達はみんな、ああして俺を怖がるのに」
「あぁ……そんなことですか」
心光はくすりと笑って、俺のそばまでやって来る。隣に腰かけると、俺に目を合わせた。
その表情は慈愛に満ちる美しき僧でしかない。思わずどきりと胸が鳴る。そんな俺に、心光は言った。
「だってあなたは、私に危害を加えたりしなかったでしょう?」
「……それは、そうだが」
理由なく人を襲ったりするわけがない、と思うのだが。鬼、というものは、そうではないのだろうか。
首を傾げていると、心光は優しい声で続けた。
「それに初めて会ったあの夜からずっと、邪気のようなものを感じないのです。あなたは心優しい罪無きひと。他の者にはわからなくとも、わたくしにはわかります」
「だが、事実俺は祠に封印されていたんだ。なにか悪いことをしたんじゃないだろうか……」
「あなたがどうしてあの祠に封じられたのかは、わかりません。ですが蘇芳、あなたは人喰い鬼などではございません。たとえ万人があなたをそうと呼んだとしても、わたくしはあなたを信じます」
一切の迷いの無い、澄んだ言葉。胸が痛む。
心光は、俺が何者かわからなくても。鬼であっても。人を喰ったりはしないと、害は無いと、心からそう信じてくれているのだ。そう感じて胸が熱く、苦しい。
この村の者達も、夢の中の人々も俺を恐れ、憎み、避けたり襲ったりしてきたのに。彼だけは、初めて会ったその時から信じてくれたのだ。自分のなにかが救われていくような気がして、心が乱れる。
そうであれば。俺もまた、心光を信じなければいけないだろう。そのためにも、俺は彼を知らなくてはいけない。
「……心光。お前のことを知りたい」
「わたくしのことを? 蘇芳に聞かせるようなことなど、何もございませんよ」
「そんなわけあるか。お前のその瞳や、あの黒い影……いつもの優しい心光と、……狂った月のようなお前。ふたつの姿があるのに、理由がないはずない。全てでなくていい、せめてなにか、お前のことを教えてもらえないか」
「…………」
「俺はお前に信じてもらえて、本当に、心から嬉しいんだ。だからお前のことも、何があっても……お前が何者であっても信じてやりたい。その為にも、知りたいんだ。なにかほんの少しでいい。お願いできないだろうか……」
心光はしばらく答えなかった。
しかし、ややして彼が目を細める。その表情は妖艶で、まるで俺を憐れむような眼差しをしている。
直感的にわかった。これは、よくない心光だと。
「この身体の持ち主に、情でも湧いたのですか? 蘇芳」
「…………」
「まぁ、良いでしょう。「わたくし」はあなたに語りたくなさそうですが、「私」は構いません。少々お聞かせ致しましょう、清廉で憐れなるひとりの僧のことを」
そう言って心光は縁側を降り、小さな庭へと進んで行く。
月の明かりを受けて、彼はこの世のものとは思えぬほど美しく、妖艶だ。影が大きく伸びる。しかしそれは俺を襲うでもなく、心光の動きに合わせてゆらゆら揺れた。
心光はまるで舞台で踊るように、歌うように、語り始めた。
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