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6-2 記憶

 怒号、悲鳴、叫び声。記憶、記憶、記憶。  こんなことが前にもあった。  俺はただ。いつものように山を下りて、あいつの家に行ったんだ。そうしたら……あいつの家の戸が開いていて。中を覗いたら、無残に切り裂かれたじいさんと、うつ伏せに倒れたお夏の姿があった。  俺は、熊か何かにやられたんだと思ったよ。すぐにお夏たちに駆け寄って、息が有るか確かめた。お夏のほうは背中から襲われたんだろう。まだ辛うじて生きていて、揺すり起こすと微かな声で言った。 「すおう」  お夏はもう目が見えていないのか、俺ではないどこかを見ながら、震える声で呟いた。 「どうして? 信じてたのに……」  その言葉に、俺は息を呑む。  あれほど俺に良くしてくれていた、お夏でさえ。自分の命の危機を感じたとき、それが野生動物や熊ではなく──俺だと思ったのだということに。 「お夏、違う、俺は、俺じゃない、俺じゃないんだ!」  もし。  俺が本当に鬼だったなら、お夏たちを守れたろうか、助けられただろうか。鬼なんて名ばかりの、ただの異人の子でなければ……。  そんな悔恨に気付いたらしい。お夏は「ああ」と涙を零す。 「ごめん、すおう。疑ったりして、そうよ、あなたは鬼なんかじゃ……」 「そうだ、信じてくれ、俺は決して……!」  訴えたところで、もうお夏の耳には届いていなかった。はっと気づいたときには、静かに息を引き取っていたから。  その時、俺の背後で悲鳴が上がる。物音を聞きつけた村人が、俺たちを見つけたのだ。お夏を抱いた血まみれの俺を見て、彼らが何を思ったのかは容易に想像できる。  俺は首を振り、弁明した、説明を繰り返した。だが何の意味もありはしない。俺を鬼だと呼んで、たくさんの人間が俺を襲った。 「前から気に食わない奴だった」「いつかやると思っていた」「あんなもの、村に入れなければ良かったんだ」  見知った顔たちがそう言って、俺を追う。野を駆け、山を登り必死で逃げた。それでも彼らは追ってきた。いつの頃からか、馬に乗った武者や、見たこともない服を着た奴まで俺を探している。 「鬼を捕まえろ」「逃がしてはならない」「退治しなくては、また犠牲者が出る」  大切な人が殺され、しかも自分のせいだと疑われ。俺の絶望、怒り、悔しさが腹の底に冷たくしかし煮えるような炎を生んだような気がした。  ただこんな姿に生まれただけの、俺に何の非があった。ただ皆と共に生きたい、そんな願いがいけなかったというのか。どうして俺は、こんなに親しい人からまで疑われねばならない。そしてこんなに信じてくれていたひとを、失わなければいけない。  善く生きたところで、何も守られなかった。力が無ければ、お夏も、その家族も、俺自身も。誰も守れなかった。それこそ、鬼のような力でもなければ──。  この世は、奈落だ。  額がずきりと痛む。呻いて顔を押さえれば、手にはべったりと血が付いた。震える手で額に触れれば、そこには二本の立派な角が生えている。  鬼だ。  俺は、真実、鬼なのだ。  だが、それでも俺は人喰い鬼などではない、と俺はひとりで泣いた。俺は、何もしていない。何も。身体は血にまみれ、額には角が生えても。この身に大切な人の亡骸を抱いても。決して、決して俺はなにもしていない。  しかし、泣いても喚いても俺の味方なんぞ何処にもいなかった。  すすき野を駆け抜け、最後に辿り着いたあの家で。住民に温かく迎え入れられ、泣きながら安心して飯を食べた。そんな俺を彼らは寄ってたかって滅多打ちにし、縄で縛ると追ってきた男に俺を差し出したのだ。  ああ、もう。神も仏もあるものか。誰も俺のことなど信じてくれない。俺はきっと、鬼なんだ。鬼として死んでいくしかないんだ。涙も枯れ果てるほど嘆いたある夜、そいつは訪れた。 「あなたが、あの村にいたという鬼、ですね? 大丈夫、怖がらないで。私にはわかります。あなたが人を喰らったことのない鬼だということぐらいは」  その男は、……陰陽師の装束を着た男は、地べたに丸くなった俺へ優しく微笑んだ。大丈夫、と何度も繰り返し、その白く細い手を俺に差し出す。  ああ、思い出した。そいつの顔はどこか……どこか、心光に似ている気がした。

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