31 / 50

6-3 陰陽師、安倍

「あっちだ! 捕まえろ!」  声にはっと我に返る。物陰に隠れていたが、見つかってしまったらしい。刀や槍を持った男たちが、俺を追ってくる。それから逃れて走りながら、俺は闇雲に心光を探していた。  心光は傷付いた俺を囮にして、都の闇へと溶け込んでしまった。裏切られた、騙されたという怒りや絶望もあるにはあったが、それよりも彼を止めなければという気持ちが勝った。  心光は、何かをする気だ。きっとよくないことを。そしてそれは心光自身を傷付ける。  そんな予感がして、俺は傷の痛みなど忘れたように駆けずり廻った。実際、傷は塞がっていたかもしれない。それどころではなかったから、よくわからなかったが。  屋根に飛び上がり、辺りを見渡せば北には大仰な建物が並んでいて、南東のほうにはなにやら大きな寺があるのも見える。  心光が向かうとしたら、どちらか。  思案する間にも矢などが飛んでくるのを、ついと避けて逃れる。 「陰陽師のかたがいらっしゃったぞ!」  誰かがそう言うのが聞こえて、そちらを見やる。確かに、何人もの陰陽師たちが札を構えているのが見えた。  ふと、思う。鬼がいると、陰陽師が駆り出される。心光は俺を囮に、何処へ行きたがったのか。普段は兵や陰陽師がいる場所へ行きたいのではないだろうか。俺に目を向けさせる、警備が手薄になるよう目論んだのではないか。  だとしたら。  俺は北へと目を向ける。中央には帝の住む豪奢な建物があり、その周辺には貴族たちの邸宅が建ち並ぶのだと心光が言っているのを聞いた。そして心光は、とある貴族の子だったらしい。  ならば、その親兄弟へ会いに行くのでは。そして──きっと命を奪う。  悟り、俺は屋根の上を駆ける。陰陽師たちが札を放ち、式神を寄こす。それを手で振り払い、爪で切り裂きながら北へと向かおうとする。 「御所へ向かわせるな!」 「ここで食い止めろ!」  だが、兵たちが立ちふさがると、俺はどうやって彼らを傷つけずに進むかを考えなければいけない。彼らを迂回し、攻撃を避け、式神を始末しながらの移動はさすがに苦しい。呼吸が乱れ、次第に身体が疲労を訴え始める。その度、俺は鬼だ、疲れなど知らないと自分に言い聞かせると少々楽にはなった。  そうしてどれほどの時間が経ったろうか。 「安倍様だ! 安倍様がいらっしゃった!」  その声に俺ははっと立ち止まった。陰陽師の集団の中に、真っ白な装束を身に着けた、髪の長い男の姿があった。彼は凛とした顔立ちで、俺をひとつ目で捕えると素早く印を切り、式神を放つ。 「……っ!」  彼が寄こした式神はこれまでの陰陽師が繰り出してきたものとはわけが違った。それは白虎の如く淡く透き通った獣の形をしており、赤い瞳が輝いてこちらを見据え、咆哮を上げた。  白虎が俺に向かって宙を駆け、襲い掛かる。それをかわし、いなしたものの、そこへ向けて札まで飛んでくる。それをなんとかせねばと意識を取られ、背後から白虎に覆い被さられてしまった。 「ぐあ、ぁ!」  なんとか力任せに振り払ったものの、太腿に鋭い爪を立てられ、思わず怯む。そんな身体に札が当たり、まるで俺の皮膚を包むようにぺったりと貼りつく。刹那、全身から力が抜けていった。  きっと鬼を無力化する何か呪術が使われているのだろう。俺は必死で抗ったが、白虎には噛みつかれているし、力は出ないし。そうこうしているうちに、兵たちが寄ってたかって俺を殴打し始める。  いつか、どこかで味わった苦痛だ。その苦い記憶を思い起こしながら、それでも俺は安倍様とやらに向かって叫んだ。 「頼む、聞いてくれ! 俺なんかを相手にしている場合じゃない!」 「何を言っていやがる、この鬼め!」 「うぐっ」  腹を蹴られ、言葉に詰まる。安倍は静かに俺に歩み寄ってくる。とどめを刺そうとしているのかもしれないが、だとしても伝えなければならない。 「頼む、俺のことはどうしたっていい、だが聞いてくれ。都に今、なにか良くないものに憑かれた僧が入り込んでる! 止めてくれ、きっとあいつは親の……「かざのいん」とかいう奴のところにいくつもりだ!」 「花山院……?」  安倍は小さく呟く。彼がすっと手を払うと、俺を攻撃していた兵たちの手が止まった。全身が痛む。白虎は俺を押さえつけて唸り続けているが、それ以上のことはしない。  安倍はやがて俺のそばまでやってくると、静かな声で尋ねた。 「それは本当かい? 花山院へ何者かが向かっている、と」 「本当だ、信じてくれ、あんたも陰陽師ならそういう気配がわかるんじゃないか!? 頼む、止めてくれ、あいつは、あいつは信寧寺の心光って名前の僧で……乗っ取られて正気を失ってる、きっと人を殺して食うつもりだ、止めてくれ、頼む、お願いだ、俺はどうなってもいい、どうなってもいいから……っ」  あいつに、これ以上罪を犯させないでやってくれ。  俺は涙を零しながら、必死で訴えかけた。  思えば、心光と俺は同じだ。何もしていないのに、人々に疑われ、本当に人を捨ててしまった悲しい存在。だが俺は手を血に染めないまま封じられ、心光はその心の闇を怪異に付け込まれて本当の人喰いになってしまった。  心光の、俺たちのなにがいけなかったというのか。誰にも心光を止める権利は無い。だが全てのひとも、誰かに命を奪われるためにいるわけではない。ましてや、心光自身はこれ以上の罪を重ねることを望んでいないのだ。  だから、守らなければと思っていたのに。結局俺には、何もできない。何もしてやれない。今でさえ、誰も俺の言葉に耳を傾け信じてなどくれはしない。  悔しくて、苦しくて、悲しくて。痛いほどに熱い胸から、嗚咽をしぼり出し、それでも藁にも縋るように、願いを繰り返した。  やがて安倍が静かに印を切る。すると俺の意識はすうっと遠ざかっていく。  俺は、死ぬのかもしれない。そんなことを考えながら、静かに視界を閉じた。

ともだちにシェアしよう!