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6-4 雪子

 夜の帳が降りた都。南西の方角からは騒ぎの声が遠く聞こえる。屋敷の者たちも口々に何事かあったらしいと、各々が庭や道、高い場所へ上がって都の様子を見ようとしていた。  そんな中、ひとりの人物が静かに縁側に座り込み、夜空を眺めている。  幾重にも着物を重ね、長い髪を結わえた初老の女性だ。その顔には老いが見えるものの、しかし顔立ちは整い、静かな亜麻色の瞳は憂いを帯びて月を見上げている。秋のひやりとした風が吹き、庭木を揺らし音を奏でる。彼女は──雪子は静かに暗い庭へと目を移した。 「……!」  それで雪子は気が付いた。いつのまにやら、暗い庭に人影がある。頭巾を被って黒い服を着ているのか、身体はほとんど見えない。その白い顔と亜麻色の瞳ばかりが月光の下で輝いて見えた。 「誰じゃ、この屋敷の者ではないな」  雪子が静かに問うと、その人影は小さく微笑みを浮かべて、ひとつお辞儀をした。 「急なご訪問をお許しくださいませ。わたくしはあなたに尋ねたいことがあり、参っただけの者にございます」  どうやら相手は男のようで、その声は静かで耳には心地良い。だが、侵入者であることは間違いなかった。 「庭へ忍び込むような者に、答えることなど」  雪子が眉を寄せ、屋敷の者を呼ぼうと立ち上がる。そんな彼女に、その男は問うた。 「あなたは、我が子を呪いましたか?」 「……なにを申す」  目を見開いて、雪子はその男をじっと見つめる。穏やかではないことを口にしながらも、彼は柔らかく微笑んでいた。 「あるいは、我が子が呪われていることをご存知ですか?」 「何を、何を申す。私が何故、我が子を、ただひとりの子を呪わねばならぬ。ましてや、何故あの子が……今はもう俗世にさえおらぬ、あの子が呪われねばならぬ……!」  雪子は悲痛な表情を浮かべ、首を横に振る。 「我が身が側室でなければ、この花山院の家を継ぐはずだったあの子を、寺に送れと命じられ、私がどれほど苦しんだか。奥方様に世継ぎが産まれてからは、御屋形様も私から離れ……近頃など、私が世継ぎに呪詛をかけたとまで罵られ。挙句私が、我が子を呪うと、呪われると申すのか!?」  そう語る声が、手が震えている。雪子は男を睨みつけたが、彼は冷たい視線を受けても表情ひとつ変えず、「いえ」と小さく首を振った。 「お心当たりがないのならば、結構でございます。しかしながら、あなたの御子が何者かに呪われたことは、事実なのです」 「そんな、そんなまさか、一体誰が、そのような……!」 「それを確かめに、わたくしは参りました」 「ああ、我が子は、……定光は、無事なのか?」  その問いかけに、男は僅かに笑みを消し、それから「さて、わたくしには、どうとも」と言葉を濁す。その返事にさえ、雪子は「あぁ」と嘆きの声を漏らし、手で顔を覆った。 「御仏は私から、定光さえも奪うというのか? あぁ、あぁ、私の愛しい子……そうじゃ、陰陽師に助けを請おう、きっと定光を助けて頂ける……! 呪詛返しができるような、高名な……安倍様のようなお方に……!」 「しかし、安倍様のようなかたに願うには、対価も相当なものが必要でございましょう」 「何を申すか!」  男の言葉に、雪子は激昂し、頬を赤く染めながら叫ぶ。 「私にはもう、定光しかおらぬ! 定光を失わずに済むというのなら、私の全てを捧げても構わぬ! 家財も、地位も、何の価値もありはしない、我が子さえ健やかに、幸せに生きてくれたら……!」  他には、何もいらぬ、何もいらぬのに。なにゆえに。  やがて嗚咽を漏らし始めた雪子を、男は静かに見つめている。風がざぁと吹き、樹々の黒々とした影が大きく揺れた。まるで、何か巨大な生き物が蠢くかのように。  しかし、顔を覆って涙を零す雪子には、そんな姿など見えはしない。彼女の瞼の裏に映るのは、幼きままの姿の我が子だけだ。  膨らむ腹を撫で、優しく声をかけ続けたあの日。初めて我が子を抱いた、あの温もり、やわらかく笑む小さな命。その儚い手が自分の指を掴んだ、あの瞬間も。全て、全てを忘れた日など一度もない。  愛していた。しかし別れなければいけなかった。強く抱きしめ、涙を零し。我が子の息災を祈りながら、手を離さなければいけなかったあの日の胸の痛みは、今日までずっとここにある。最後に見た、まだ幼い定光の、あの瞳──。  あの、瞳?  雪子がふとなにかが気にかかって、顔を上げる。庭の男を見やれば、彼はまだそこにいて、じっとこちらを見つめていた。その瞳、その顔立ち。まだ若い男に、どこか我が子の面影を感じるような──。 「定、光……?」  問いかけに、男は応えない。その代わりに、彼は口を開く。 「あなたのお気持ち、胸にしかと届きました。ですから、あなたにお願いがあります。どうか……」  そして、彼は表情を苦しげに歪ませると、絞り出すように告げる。 「どうか、この場からお逃げください……っ」 「何を、おぬしは定光なのか、答えておくれ」 「どうか、どうかお聞き入れを……っ、お逃げください、どうか……っ」  男は何かに堪えるように眉を寄せ、地べたに蹲る。雪子は慌てて、男に──我が子と思わしき者に歩み寄ろうとした。もし彼の言っていたことが本当ならば、彼は誰かに呪われているに違いないのだから。 「定光、定光っ」 「お逃げくださいっ、どうか、わたくしは、わたくしは……っ」  男の指が、がりりと庭の土を引っ掻く。その苦しげな、しかし切羽詰まった様子に雪子は歩みを止めた。男の後ろで、大きな影が蠢いているように見えたのだ。まるで獣のように、蛇が鎌首をもたげるように。蠢くそれらが、どうにもこちらを見たように思えてならなかった。 「定光、」 「わたくしはっ、あなたを、あなたを恨んだことがないとは、言いきれない……っ。それでも、それでも」  男の頬を、幾筋もの涙が伝っている。しかしどうしたことか、その瞳は先程までの亜麻色ではなく、まるで血が滲むように赤く染まって見えた。 「あなたを、殺めたいわけではないのです、母上……!」  刹那、黒い影が触腕のように、風を切って雪子へ伸ばされた。その身を、首を刺し貫かんとして。

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