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6-6 きれいごと
「……はっ、鬼め、どこまでも私の役には立たない。本当にお前は愚かな奴だ」
心光は真っ赤な瞳で俺を睨みつけ、拘束を逃れようとその腕を握る。もがく心光を大人しくさせようと、ぐっと首を押さえる手に力を込めた。骨が軋む音さえ聞こえてきそうだ。
苦悶の表情を浮かべた心光は、やがてけたけたと笑い、こちらに向かって言い放った。
「そのまま力を込めてみろ、愚かな鬼め。お前の力なら、この首など容易くへし折れる。その手で骨が砕ける感触を確かめてみるといい! そうすればお前の望み通り、この男はもう罪を犯せない、死ぬのだからなぁ! あはは、あははは!」
心光は……いや、影は楽しそうに笑って、俺を睨みつけている。その様をじっと見下ろしているだけで、俺の胸が、喉が、顔が焼けるように熱くなっていった。
俺にはわからない。心光なんて僧は初めからもういなくて、この影が俺を誑かしたのか。やはり心光という男はいて、その理性を保てる時間が僅かしかないのか。あるいは、今この狂気と思われる言動さえ、心光と影が混ざった彼の本音なのか、もしくはこれこそが心光の言葉であるのか。
俺にはまだ何もわからない。わからないけれど、それでも。
「……そんなことをいうのはやめてくれ、心光……」
俺が静かに呟くと、彼は笑うのをやめて俺をじっと見つめた。赤い瞳は血のように濡れて邪悪にも思えるのに、どうしてだかそこに深い悲しみが宿っているようにも見えた。
「俺はお前を死なせたくない。そしてお前に人を殺めさせたくもない。お前が心光であろうと、そうでなかろうと、だ。……頼む、心光を解放してやってくれ。きっと心光はお前とは違う。人を傷つけたいなどと、望んでいないんだ……」
その上で。お前に何か、この世への恨みがあるというのなら、話を聞くから。どうか。
胸の苦しみを押さえながら、言葉を絞り出す。影は静かに俺を見上げて、それから小さな声で呟いた。
「ああ、こいつはこんなに愛されて……」
「心光、」
「いいか、鬼。きれいごとを並べるな。お前と私、そしてこの男はみな同じだ。身に覚えの無い罪を着せられ、追い詰められ。絶望と痛みの末に人を捨てた化け物だ。どんなに善人ぶってもなぁ、見てみろ、お前のどうしようもなく人を外れた醜い姿を。誰もがお前を鬼と叫び、誰もが私を化け物となじる! 誰かがお前を許し、私を受け入れても、決して世界は受け容れないのだ。それでどうやって善くあれる? 善くあることで誰が守れる? いいか、私がこうであることを望んだのは、皆だ、この世だ、この世の鬼どもだ! その望みに応えてやっているだけなのに、私の何が悪い?」
「心光……」
「私を止めたければ殺せばいい! ただしこの男も道連れだ、人を殺めて血を啜った化け物として死に、私と共に地獄に落ちる! それが嫌なら私に恨みを晴らさせろ、私を穢し、貶め、捨て、裏切ったものそのことごとくを殺してやる! あはは、あははは、あはははは、…………」
心光の笑い声が唐突に途絶えた。そして彼はがくりとうなだれ、目を閉ざす。まるで、死んでしまったかのように。
「心光、心光!」
俺は動揺して名を呼んだ。そこへ安倍国親という陰陽師がやってきて、小さく首を振る。
「死んだわけじゃない。札の効力で一時的に意識を封じただけだよ」
「た、頼む、心光を退治しないでくれ、彼は……」
「わかっている。私も、このまま彼を祓うつもりはないからね」
国親はそう言って俺をなだめた。するとそこに、ひとりの女が駆け寄ってくる。
「定光、定光……っ!」
彼女は俺の顔を見ると、怯えたような、それから怒るような表情を浮かべた。そんな彼女に、国親は首を振って言う。
「彼は私の式神です。雪子様の御子を悪しき霊より救うため、乱暴を働かざるをえませんでした。どうかお許しください」
式神呼ばわりされたのは不服だが、確かに国親は高名な陰陽師だというし、そんな彼が連れ歩いているとなれば多少は安心もできるだろう。俺は心光と訪れた集落のことを思い出しながら思った。
「ああ、国親様。定光は、定光は助かるのですか?」
「それをこれから調べる必要がございます。一時、御子様を私にお預けください。私めの屋敷で祓いの儀式を試みてみまする」
国親はそう穏やかに、極めて冷静に雪子という女へ告げた。そのおかげか、雪子もずいぶん落ち着きを取り戻して、不安そうな表情でこちらを見つつも、俺に憎しみの視線を向けてはこなくなった。
国親は確かに都で絶大な信頼を得ている陰陽師なのだろう。心光が頼ろうとしたのも肌で理解できた。彼なら、俺や心光を治すことができるのかもしれない。だが、先ほどの戦いでは心光相手に苦戦を強いられていたようにも見えた。
俺たちは、本当に救われたりするのだろうか。不安が背中から冷たく這い上がってくる。そんな俺に、国親は小さな声で囁いた。
「疑いの気持ちは邪悪を強める。ひとまずは私を信じて、着いてきてほしい」
その言葉に国親を見る。彼は端正な顔で微笑みを浮かべている。その瞳は、確かにどこか信頼できる気がした。
「では、私の屋敷に運びましょう。雪子様、ひとまず失礼致します。さ、君。丁重にお運びするのですよ」
国親は俺に命じるようにそう言う。俺は式神ということになっているから、従うしかないだろう。心光から手を離すと、白い首には僅かに赤く跡が残っていた。その痛々しさに複雑な心地になりながら、俺は優しく心光を抱き上げる。
どうか、どうか救われて欲しい。俺も、心光も。
そう、信じることしかできなかった。
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