35 / 50

7-1 回帰の印

 都の夜は、賑やかだ。ここが貴族の邸宅が並ぶ地域だからかもしれない。彼らは夜に宴を開くのが好きなのだそうだ。塀の向こうからは微かに楽器の奏でられる優美な音と、時折男たちの笑う声が聞こえた。  都に鬼が侵入し、花山院の邸宅に怪異が出て。それを安倍国親が退治し、式神にしたらしいという噂は瞬く間に広がり、おかげで俺は拘束されることもなくぼんやりと月を眺めていられる。  山の中だろうが、都の中だろうが月はずっと変わらない。心光と出会った満月の夜から随分経ったのだろう、今見上げる月はあの日のように真ん丸の姿へ近付いていた。  都でご高名な陰陽師、安倍国親は人間性もできた素晴らしい男らしい。俺の様子を見て、嘘を言っているとは感じなかったようだ。人々を納得させるため、俺を一時眠らせ、その間に何か術を使うふりをした。すぐに目が覚めた俺に向かって、「この鬼を懐柔し、式神とした。安心するとよい」と周りを言いくるめ、俺と共に花山院の屋敷へと向かってくれたのだった。  そして今、俺は安倍の……国親の屋敷で世話になっているというわけだ。そして同じ敷地の、どこかに心光もいる。だが、あれから数日。国親は事情を探ると言って消え、それきり俺には何の連絡もない。おかげで俺はすることもなく、貴族街の屋敷で、ぼんやりと過ごすことになった。  世話になるばかりではと家のことでも手伝おうとしたが、彼らは俺のことを怖がるでもなく、客には仕事をさせられないと断られ、結局上げ膳据え膳でぼんやりするしかない。むしろ、身体を動かさないと不安ばかりが募る。  そんな俺を案じてくれたのか、屋敷の者が都の街を案内してくれたりもした。都は活気にあふれ、市には見たことのないものが並び、随分面白いとは思った。  だが、俺の隣には心光がいない。それがとても、寂しいと改めて感じた。  心光はどうなるのだろうか。俺はどうなるのだろうか。そんなことばかり考えてしまうのだ。 「やあ、蘇芳。随分待たせてしまったね」  夜の縁側で物思いに耽っていた俺は、後ろから声がして驚く。振り返れば、笑顔を浮かべた国親が立っていた。 「安倍様、心光は……! それに、俺のことはわかりましたか!」 「君は式神ということになっているのだし、私のことは国親でいいよ。それに改まった言葉遣いもいらないからね」  国親はそう言いながらも、いくつかの書を俺の前に広げる。けれど俺には字が読めない。並べられたって、何が書かれているのだかはさっぱりわからない。しかし、なにか線が引いてあるし、もしかしたら家系図だろうかと思った。 「とりあえずまずは、君についてわかったことを話そう。君が封じられていたという札を調べてみたが、確かに私の家に代々伝わる札に間違いはない。少しずつ様式が変わっているから、およそ私のひいおじい様かその上あたりの時代かと思ってね、代々伝わる記録を調べてみたんだ」 「何か、わかったのか?」 「ああ。やはりひいおじい様の代だったよ。西方の山村にて、人喰い鬼の報告が有ったが、これがなかなか捕まらないのでひいおじい様が派遣されたというわけさ。その当時の記録がこっちで……字は読めない?」  素直に頷けば、国親は「そうか」と頷いて、文字を指差しながら俺に伝えてくれる。 「山村から更に西、人里離れた家で住民が捕えたのを見に行った。しかし、その鬼は泣いてばかりで、どうにも人を喰ったようには感じない。長い時間をかけて話を聞いてやれば、自分は鬼ではないという。ひいおじい様はここで気付いたんだね。君がいわゆる地獄の鬼ではなく、人々の怒りや憎しみ……そして君自身の感情を受け、鬼に成ってしまった存在だと」 「鬼に、成ってしまった……」  俺はあの時のことを思い出す。お夏たちが引き裂かれた姿を見て、俺は怒りと悲しみ、無力感と絶望に、身が焼かれるような思いをした。その気持ちが、俺を鬼にしてしまった、ということなのか。  国親はあくまで穏やかに頷いて、続ける。 「そういうことはね、稀に起こる。今のこの世は特に、人々が天の災いや妖怪の仕業を強く信じているからね。多くの人が信じて、そして本人にも強く感情が湧くようなことがあって。そこになにかのきっかけが生じれば、人も怪異と成り果ててしまうのさ。ただ……」 「ただ?」  問うと、国親は優しく笑って言った。 「君はきっと、生来呆れるほどにお人好しで、優しかったんだろう。そうなっても、自分の力を使って生き残ろうとしたり、恨みを晴らそうとはしなかった。だからだろうね、ひいおじい様も君をひどく憐れに思って、君をその家にあった岩へ封じることにしたのさ。それもこの……回帰の印を使ってね」 「回帰の、印……」  国親は懐から札を一枚取り出してみせる。それは確かに、俺が封じていた札とよく似ている気がした。 「人を越えてしまったものを、人に戻すのはとても難しい。大人が赤子に戻れないようにね。けれど、非常に長い年月をかけて人々の記憶から君への憎しみを消し、君自身からも自分が鬼という記憶を消し去れば、やがて限りなく人に近くなる。そこで君は人だと言ってもらえれば、君は人に戻れるというわけさ。人々によって鬼にされた君は、また人々によって鬼でなくなることができる」 「……だから、百年が必要で……俺は何もかもを忘れていた、ということか……」 「そう。その仕上げを、ひいおじい様の子孫がする予定だった。しかしこの百年の間、申し訳ないことだが我が家でも色々とあってね。ひいおじい様の伝承は途絶えてしまった。君の封印は安倍家の血を持つ者にしか解けない。最悪の場合、君は永遠にあそこで封じ続けられていた可能性もあるし、まぁ、解放されただけでもマシだったかもしれないが……」 「……安倍の血を持つ者にしか、解けない? だが俺の封印は……」  心光が訪れたあの晩。どうしてだか解かれた。だとしたら、俺があそこから出られた本当の理由は。  その可能性に思い至り、国親の顔を見る。すると彼は、静かに頷いて答えた。 「そうとも。偉大なる陰陽師であったひいおじい様の子孫の中には、貴族との婚姻をした者も少なくない。そのうちのひとりが花山院に輿入れしている。花山院現当主の側室、雪子様だ。御子であった花山院定光様は、幼い頃に出家なされて現在は信寧寺で僧をしていらっしゃる。……もう、わかるね?」  問われても、俺はしばらく返事ができなかった。  思い出したのだ。俺が封じられることになった、あの日のことを。

ともだちにシェアしよう!