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7-3 楽土にて
その小さな蔵の入口には、式神と思わしき鳥のような生き物が二羽いるばかりで、他に人の気配は無かった。迷いなく扉を開いて中へ消えていく国親に続くと、そこは外で見たよりもずっと広い空間だった。
部屋の中央には木でできた格子があり、その中のなにかを囲っているようだ。無数の札が張られ、杖のようなものが打ち付けられているその中に、心光が横たわっているのを見つけ、俺は名を呼んで駆け寄る。
「心光! 心光……」
しかし、格子の──檻の中の心光は深く眠りについているのだか、身じろぎひとつしない。あるいは死んでいるのではと不安になり、国親を見れば、彼は苦い笑いを零した。
「そんな顔をしないでくれ。なかなか魂が強く融合していて、安静な状態に持っていくのには苦労したんだよ。ここから出すわけにはいかないが、今のところ状態は落ち着いている。この中にいれば、よほどのことが無い限りは影に人格を喰われることもないさ」
「じゃあ……」
「ああ。今あそこで眠っているのは、正真正銘、花山院定光こと、心光という名の僧だよ」
もっとも、完全に怪異と分離できているわけではないから、純粋にそうとまでは言い切れないんだけども。
国親は決まりが悪そうにそう言った。俺は改めて心光を見る。彼は穏やかな表情で眠っていて、特に体に危害が及んでいる様子もない。きっと国親が良くしてくれたのだろうと、信じるしかなかった。
今なら、本当の心光と話ができるのかもしれない。もう一度国親を見れば、彼は頷いて牢の鍵を開けてくれた。
「蘇芳君に限ってそんなことはしないと思うが、くれぐれも勝手に彼をここから出そうとしたり、ひどく精神的に追い詰めるような言動はしないでおくれよ。そうなったときにはいよいよ、私も取るべき手段を選ぶことができなくなるからね」
「ああ、わかってる」
「数刻したら戻ってくるから、それまでゆっくり過ごしておくれ。まあ、居心地の良さそうな場所ではないかもしれないが、案外檻の中も入ってみれば落ち着くものだよ」
自分からも他者からも干渉できないというのはね、それはそれで不幸せでその実幸せなことなんだ。
国親はそう言って、牢の戸を開いた。俺はおずおずとその戸をくぐって、中に入る。
「……!」
その瞬間、檻の中の景色は一変した。
そこはどこかの屋敷の一室のようで、畳張りの床の上に、心光は眠っている。穏やかな陽の光、振り返ればそこには静かな庭園が存在していた。風がさらりと髪を撫でる。そんなことがあろうはずもないのに、現実としか思えなかった。
その庭の一角に、黒い門が開いてる。そこから国親が顔を出して、「また後でね」と笑むと、ゆっくり門は閉じ消えてしまった。
「…………」
不思議なことばかりで、俺は困惑しつつも屋敷を見回す。その建物の作り、庭の形にどこか覚えがあるような気がして……ふいに思い出した。
ここは、あの花山院の屋敷ではないだろうか?
誰かひとがいるのだろうかと声を出してみたけれど、一羽の鳥が飛んできただけだ。それは蔵の入口にいたものと同じで、なるほど、こいつがここを見張っているのか、と納得する。きっと国親の式神かなにかなのだろう。
ありがとう、また用があれば呼ぶよ、と声をかけると、鳥はひと鳴きしてどこかへ飛んでいく。それを見届けて、改めて心光へと歩み寄った。
近付いてみれば、心光は穏やかに眠っている様子で、その周りに札や杖なども見えはしない。きっとここは、国親が作った幻の──心光が最も心静かに過ごせる場所なのだろうと思う。
彼が、親に愛されて……なんの苦しみも知らなかった頃の景色。それが、ここなのだろう。そう考えると、胸が冷たく痛んだ。
そっと座り込み、心光に触れてみる。その身体はひとの温もりを宿していて、幻などではないとすぐにわかった。優しく頬に触れながら、小さく名を呼ぶと、彼がゆっくりと瞼を開く。
優しい亜麻色の瞳が、俺を見上げる。しばらくぼうっとしていた心光は、やがて「すおう」と俺の名を呼び、起き上がろうとした。それを手助けしてやって、俺たちは向き合う。
心光は俺の顔を見ると安心したように表情を綻ばせ、それからすぐに何かを思い出したように曇らせた。小さく首を振ると、頭を下げて謝罪を口にする。
「蘇芳、申し訳ありません。わたくしは、あなたを騙すような真似を、挙句怪我まで負わせて……!」
「……いいんだ。心光の意思じゃないなら、それで」
「いいえ、いいえ。あなたに縋り、あなたから人だと、善良な僧だと信じていただけたのに。都へ辿り着くや否や、わたくしの心は徐々に影へ蝕まれて……。あなたから受けた恩を、仇で返すようなことを……」
「いいんだ、心光。いいんだ」
そっと抱きしめてやると、小さく息を呑む音が聞こえる。それから心光は、おずおずと俺の背に手を回してくれた。
しばらくの間、俺たちは互いにその温もりを確かめ合っていた。とくり、とくりという互いの心の打つ音がして、やがて再び見つめ合う。心光は何か迷うように視線を逸らし、目を伏せた。
「わたくしは……わたくしは、仏の道にある者です。だというのに、どうしても心が乱れる。わたくしの全てを、宿陽を、友を奪ったこの世がどうしても許せぬのです。そのふつふつと煮えるような感情は、きっとわたくしを操る影と同じものでございましょう。あれもまた、この世に深い憎しみを抱いている。だからこそ、わたくしたちは混ざり合い、国親様にここまでしていただいても分かたれない……」
「心光……」
「故に、わたくしはこのような醜い心など捨ててしまいたい……仏に仕える者として、静謐に生きていきたいのです。だというのに、……わたくしは……」
心光がぎゅっと俺を抱く手に力を籠める。その意味するところを察して、俺はできるかぎり優しく彼の背を撫でてやった。彼は小さく溜息を吐き出して、そして続ける。
「わたくしはどこまでも愚かで、浅ましい。わたくしを人と、清いと信じてくれるあなたに、こうして情を寄せてしまっているのですから……」
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