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8-3 古巣にて

 その時、俺と国親は街を歩いているところだった。  俺や心光をすぐ人に戻すことはできないが、人々から恐れられないようにするのは可能だ。国親は俺を仕事のときに供をさせて、都の人々の味方であると周知させていた。  そうして人々が俺を受け入れれば、鬼であったとしてもこれ以上人を離れずに済む。だが心光のほうはなかなか難しかった。  花山院の人々や、信寧寺の面々に、「心光は善良な人間で、人喰い僧などではない」と信じてもらったとしても、心光は事実として人を殺し血を啜った。その「事実」は曲げようがなく、だからこそ彼を救いがたい。  とはいえ、あの檻でこれから一生過ごさせるのか。長年岩の中で生きていた俺は、そんなこともさせたくなかった。確かに安全ではあるが、恐ろしく退屈な時間を悠久に過ごすだなんて、残酷でもある。  どうにか心光と影を分離する方法は無いものか。国親と俺は様々な資料や人々、元怨霊の式神などを調べながら、ときに夢物語のような可能性に思いを馳せ、ときに現実的な、できれば避けたい方法を検討しては溜息をついた。  もっとも手軽で確実な方法は、心光を殺すことだ。  怨霊は肉体が無ければ実体を失いこの世を彷徨うもの。そうなってしまえば、国親が式神化するも祓うも簡単にできる。影自身が、心光の魂と肉体を捨てさせるよう仕向ければいいのだ。心光も罪人として死んでしまうが、そこにはある種の救いもあるだろう。  だが、それがどうにも、俺には受け入れがたい。国親も、最悪の場合だと言ってくれていた。かといって、もっといい方法は実現が難しかった。  悶々としながら、街を歩いていたその時だ。 「ん、まずいな」  隣にいた国親が、ふいに顔を上げる。なにかと思えば、彼は神妙な面持ちで空を見上げていた。  夜空には満月が輝いている。まるで、心光と初めて出会ったときのような、白く輝く満月が。 「心光君が檻から出ちゃったね」 「な……」  国親の言葉に驚くと同時に、困惑する。  心光があの檻から出る、ということは、檻が内側から壊されたか、誰かが外へ出したのだ。それなのに、国親は随分と落ち着いた様子で、首を傾げている。 「うーん、一番大事な鍵の札は、常人には見えないよう細工してたはずなんだけどなぁ。よっぽど無邪気な子どもでも入っちゃったかな……」 「入っちゃったかな、じゃないだろ、急いで心光のもとへ行かないと!」 「それはそうなんだけど、ちょっと一旦落ち着こうか、蘇芳君」  焦る俺をなだめるように、国親は夜空を指差して言った。 「今夜は月が明るい。人が移動するのも、鳥が移動するのもよく見えるはずだ」 「鳥? 夜に鳥なんて……あ」  鳥、という言葉に、俺は思い出す。  そういえば、心光を閉じ込めていた蔵の外にも、檻の中の世界にも鳥がいた。国親の式神であろう、小さな鳥が。 「こんなこともあろうかと、万が一心光君が逃げ出したら追うほうを一羽、私に場所を伝えるほうを一羽用意している。私は屋敷に一度戻るつもりだけど、私たちとは違う向きに飛ぶ鳥がいれば、それは心光君を追っているほう、ってことになるよね」 「わかった、俺はそれを追えばいいということか?」 「ご明察」  国親はにっこりと笑っていたが、屋敷に向かい歩き出した足取りは早いものだった。 「心光君の影は、しばらく檻に閉じ込めておいたせいで力が減っている、とは思いたいところだけど。感情の昂るようなことがあれば、人ぐらいわけもなく殺してしまうだろう。君には心光君を追う方を任せる、私も必ず向かうから……ああ、あそこだ!」  国親が夜空を指差す。鳥が一羽、遠くの空へ飛んでいくのが見えた。それが心光を追っているのだろう。俺は国親にひとつ頷いて見せて走り出す。  頼む、これ以上罪を重ねないでくれ。そうなってしまったら、俺たちは最悪の手段を取らなければどうにもならなくなる──。  苦い気持ちになりながら鳥を追い、月明かりの道を駆け抜けて行った。  都の中心から南に大きく道を下りた辺り。東にそびえる山の麓に建つのが信寧寺である。  石階段を登った先にある本殿は立派なもので、歴史ある佇まい。広々とした境内が月明かりに照らされている。  本殿には多くの僧侶や小坊主が、眠るための準備をしているようだ。微かに聞こえる話し声が、人の気配と温もりを作り出していた。  そんな本殿の奥まった場所に、とある一室が存在している。障子からは光が漏れていて、部屋の主はまだ起きていることが窺える。  その前に、心光は静かに立っていた。 「誰ぞ」  静かな問いかけに、心光は小さく呼吸をしてから、穏やかに答える。 「心光にございます。ただいま戻りました」 「……心光……」  部屋の中の主は、どう思ったのだろう。少しの間を置いて、「入りなさい」と声がかかる。心光はひとつ目を閉じてから、ゆっくりと部屋の障子を開いた。  決して広いとは言い難い部屋に暮らすのは、この信寧寺の和尚だ。歳を取ってなお、背筋を伸ばし、品の良い横顔をした老爺である。彼はひとり、室内で文机に向かい、夜の更けるのを待っていたようだ。  時折吹く風に木々の騒ぐ音や、虫の鳴き声のみが支配する部屋に足を踏み入れる。心光は静かに障子を閉めると、和尚の前に座した。 「心光よ、行脚はつつがなく終わったのかね。共に連れて行った宿陽も、帰って来ておるのか」  その問いかけに、心光は僅かに眼を細めて答えた。 「宿陽は、御仏のもとへ参りました」 「……そうか、それは……。……気の毒なことをした。きっと浄土にて仏の道へと至る修行を続けておるだろうな……」  悲痛な面持ちで手を合わせる様は、まるで尊き高僧のようである。そんな和尚の姿を見る心光の影が、行灯に照らされゆらゆらと揺れていた。 「して、何故そのようなことに?」 「わたくしどもは、はるか西の村へと至りました。そこは流行病で死にゆく人に溢れており、人喰い僧の噂までも流れておりますれば。人々の疑いと恨みが、わたくしと宿陽に向いたのでございます。そしてわたくしを守ろうと、宿陽は……」 「……そうか。それは、そなたも辛い思いをしたことであろう……」  和尚が、心光を見つめる。心光もまた、彼の瞳を真っ直ぐに射貫いていた。  影が、揺れている。 「わたくしは宿陽の死を、許すことができませんでした。村人ことごとくを屠り、食いちぎり、血を啜ってそれでもなお。許すことができないのです。わたくしを、宿陽を貶め、裏切った者を」 「心光?」 「あなたが、わたくしを呪ったのですか? 宿陽の命を奪ったのですか?」

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