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8-2 傲慢

 そんな時間がどれほど過ぎたろう。ずいぶんたくさんの話をした気もするが、時は一瞬だったようにも感じる。やがて定幸は黙り込んで、それから神妙な面持ちで心光を見つめたのだった。 「兄さま、兄さまはどうしてこんなところに閉じ込められてしまったのですか?」 「……それは……」  なんと、答えていいのやら。これまでの様々なこと、そしてこれからのことを考えると、自然に表情が曇る。  心光が逡巡していると、定幸が静かに問うた。 「やはり……母さまのせい、なのでしょうか……」 「……定幸の、お母様、ですか……?」  心光の父の正室。それが定幸の母だ。屋敷にいたときにも、あまり顔を合わせたことはなかった。  心光が表情を曇らせる。その名が、この流れで出るということは。  定幸もまた、悲痛な表情のまま小さく頷いた。 「私はこのとおり……体が弱く、幼い頃から伏せりがちでした。おさじにも診てもらっていますが、あまり変わりなく……。それで、母は陰陽師のかたにも尋ねたのです。すると彼らが、怨霊のせいと言うから……母はそれから、きっと兄さまと雪子さまが呪っているのだと信じ始めて……」 「わたくしと、母が? あなたを?」  そう問い返す心光の表情には、複雑な色が浮かんでいた。  まずは呆れ、それから、全くの言いがかりではないという苦い気持ち。だが実際に呪われたのは、心光という事実への困惑。そしてこのことを伝えにきた、定幸の真意への疑念──。  そんな心光の顔色を窺いながらも、定幸は続ける。 「私は、わかりませんでした。雪子さまは私を見て悲しそうな表情はされますが、恨まれているようには。それにこうして直接お話して、兄さまも私を呪ったりなどしない方だと感じました」 「もちろんです。仏の道にあるわたくしが、どうしてあなたを……」  それは真実である。思うところがありこそすれ、呪うなどと。どんな感情が沸き起こることも止めることはできないが、行動を起こすようなことはしなかっただろう。それこそ、影に付け込まれなければ、なにも。  定幸は心光の言葉に安心したように息を吐いた。しかし、それでも小さく首を振った。 「けれど、私の母は……」 「……わたくしたちが、定幸を呪っていると、信じていた……」  定幸が、ゆっくりと頷き。 「私が死んでしまったら、きっと兄さまが花山院家を継ぐことになるのですから。母は兄さまたちが呪い、家督を狙っていると言う「あの方」を信じて、呪詛返しをしたのだと思うのです」 「あの方?」  心光の胸がざわつく。  定幸の母の他に、自分を呪うような人物がいるというのだろうか。ただの僧を呪うような人間が? 思案している間にも、定幸は続ける。 「私のせいで家を出された兄さまが、挙句こんなことになったのも全て私のせい。そう考えると本当に申し訳無くて……」 「そんな、定幸のせいなどではありませんよ。あなただって、なにも悪くなどない」 「いいえ、きっとなにもかも私のせいなのです。だから、私は……」  定幸は大きく息を吐き出して。  それから、おもむろに檻へ貼り付けられた札に手をかけた。 「私は、兄さまを助けて差し上げたいのです。それだけが、私にできることだと思っています」 「定幸──」  心光が彼を止めるよう手を伸ばすより先に。定幸はその札を、あっけなく引き裂いてしまったのだった。  それは一瞬のことだった。  ぐわん、と心光の身から伸びる影が、大きく膨らみ。それから檻の鍵を刺し貫き、そのまま戸をこじ開ける。息を呑む定幸をそのまま蔵の壁に叩きつけ、その首を緩く締め上げた。 「……っ、ぁ、う、……っ」  呼吸はできる、血流も維持される。しかし、確かに苦しい。死ぬでもないが、このままではいられない。そんな力加減で首を絞められ、定幸が表情を歪めながらもがく。  そんな定幸を見つめながら、心光はゆっくりと歩む。しゃなりしゃなりと、穏やかな微笑みさえたたえたまま。赤い瞳でまっすぐに定幸を見つめながら、彼は檻から出ると、定幸の前に歩み寄った。 「ありがとうございます、わたくしの弟。おかげで外に出ることができましたよ」 「……に、ぃ、さま……っ」 「ああ、憐れで愚かな子。わたくしをここから出して、どうするつもりだったのですか? わたくしがお前よりもかわいそうな存在に見えたのでしょうか。なんという傲慢、無知、惰弱……」  心光はにぃっと赤い瞳を細める。しかし、その視線は冷たく鋭いものだった。 「お前の罪は花山院に生まれたことでも、腹違いの兄を家から追い出したことでも。ましてや病弱であることでも、母を呪詛に駆り立てたことでもありません。よく知りもしない兄へ勝手に負い目と優越感を覚え、何が起こっているかもよくわからぬまま、できることがあるのではと考える浅はかさ、またそれを愚かにも実行した傲慢です。身の程をわきまえなさい、偽善者」 「……う、ぅ、う……っ」  苦悶の表情を浮かべる定幸へ、心光はしかし穏やかに語り掛けた。 「ですが、わたくしも本心からあなたに感謝しているのですよ? ぺらぺらと花山院の内情を語ってもらえて、おかげで憎むべき相手もよぉくわかりました。お礼に、お前とその母は最後にじっくり時間をかけて殺してあげましょう。ですが、ね、定幸……」  心光が定幸の耳元で、静かに囁きかける。 「まだ名を聞いていません。お前の母と結託して、わたくしを呪った……「あの方」とは、一体どこのどなたです? 教えてくださいませんか、お前の優しい兄に……」  そうすれば、お前の首を解放してやりましょう。  定幸は息も絶え絶え、朦朧とした意識で心光の言葉を聞き。ややして、小さく口を開いた。  その言葉を聞いて、心光は言葉もなく目を見開く。影がざわざわと踊り、定幸を殺そうとはやっている。しかし、それらが定幸を刺し貫くことはなかった。 「……まことに、ですか?」  心光の問いに、定幸が頷く。見届けて、影は定幸の拘束を解いた。とたん、床に崩れ落ち、激しく咳き込む定幸に、心光は背を向ける。 「お前にはもう少し礼をしなくてはいけません」  視線も向けずに、心光は呟いた。 「お前は病弱などではない。お前はただわたくしへの負い目から、この家を継ぎたくなくて体を弱らせている卑怯者です。わたくしはそう確信致しました。だからお前も、それを自覚なさい」  そう、お前自身が信じるのです。己が本当は強いのだと。ひとりの人として生きていかねばならぬのだと。お前は己の行動に、責任を持たねばならぬのだと。  心光はそう言い残して、蔵を後にした。  残されたのは、か細い呼吸を繰り返しながら、涙を流す定幸だけ。 「にい、さま……」  そう、呟いて定幸は目を閉じる。  信寧寺の、和尚。  それこそは、定幸の母と親しく、そして心光へ呪詛を送った者であった。

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