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8-5 お人好し

 夜空を飛ぶ鳥の消えた先。そこには大きな寺が存在しており、俺はそこがひと目で「信寧寺」であると直感した。  近くまで駆けていくと、小坊主たちが悲鳴を上げて寺から走り出てくる。彼らは俺を見ると足を止めてまた表情をひきつらせたが、俺が何もしないからか大慌てでまた駆け始めた。  きっと、寺の中で何かがあったのだろう。嫌な予感は確信に在りつつあったが、急ぎ寺の敷地に入れば、棒を構えた僧たちが寺の中のほうを見ていた。 「おい、何があった」 「う、うわ、お、鬼だ! 鬼まで現れた!」  僧たちは怯え、こちらに棒を向け身構えたが、俺が「安倍国親の使いだ」と口にした途端、安心したように溜息を吐き警戒を解く。実に便利な言葉だった。 「ああ、安倍様がこの事態を何とかしてくれるのですか?」 「無論、しばらくしたら主もここへ駆けつけるだろう。何があった、手短に教えてくれ」 「それが、我々にもよくはわからないのです。ただ、和尚様の部屋からこの世のものとは思えない叫びが聞こえて、見に行った者も化け物だと叫んで逃げ……。我々は小坊主たちを逃がすためにここで待機しています」 「なるほど、僧とはいえ逞しい限り。だが、俺が来たからには安心してほしい。今のところ、その存在はお前たちに危害を加えようとしていないんだろう。ここは任せて、皆を連れ退避しろ。できるだけ寺から離れたほうがいい」 「わ、わかりました」 「それと、主がみえたらその旨を伝えてほしい。そして鬼が対処に当たった、とな。くれぐれも、決して様子を見に戻ってくるな。わかったか」 「は、はい! そのように……!」  僧たちはあわただしく、しかし俺の言葉をよく聞き逃げてくれた。国親がどれほど庶民に名の知れた陰陽師であるのやら。全てにおいて感謝しかない。  だが、一度屋敷に寄るはずの国親は、しばらく来ないだろう。ここは俺が、なんとか対処するしかない。ひとつ大きく呼吸をして、覚悟を決める。  誰もいなくなった夜の境内は、しんと静まり返っている。しかし、確かに心光の気配を感じた。そちらへ向かって歩みを進めて、俺は息を呑む。  とある一室の内側から、おびただしい量の血が飛び散ったようだった。哀れな獲物が逃れようとしたのか、もしくはこの凶行に及んだ心光の力がそこまで強かったのか、その血は庭まで及んでいた。  そして、そんな血にまみれた庭へ。全身を血に染めた心光が、うつ伏せに倒れ込んでいるのが見えたのだ。 「心光……!」  思わず駆け寄る。彼の身体に付着した血が、他の何者かのものであることは容易に想像がついた。だが、どうして彼が倒れているのか。わからないまま、彼に触れると仰向けに抱き起こす。 「心光、心光っ」  身体も顔も、血で汚れた心光は意識を失っていたらしい。だが、俺が声をかければゆっくりとその瞼を開いた。その瞳は赤い色をしていたけれど、どうしたことか俺を見上げる視線は揺れている。 「心光、大丈夫か、一体どうした……!」 「……ああ、蘇芳……。やはり、追ってきたのですね……」  心光は震える声で呟く。様子がおかしい。よく見れば、心光は腹を押さえているようだった。そこも他の場所と同じく血に染まっているが、ひとつの予感を覚えて問う。 「お前、怪我をしたのか」  そう問うて、彼が押さえる腹部に触れようとする。しかし、それを心光の影がやんわりと拒んだ。それで気付く。いつも血気盛んな彼の影さえ、くたくたと力無い動きをしていることに。  俺は様々なことを一瞬考えた。心光が怪我をしたのは、どういった経緯なのか。恐らくあの部屋の惨状と関係があるのだろうが。因果はどちらの向きにあるのか。すなわち、心光が人を殺そうとして返り討ちにあったのか、それとも心光が殺されそうになって相手を殺めたのか。  正しさは、どこにあるのか。そんな思考をしかけて、すぐにやめた。今大切なのは、目の前で心光が怪我をしている、ということだ。それも、あの影がこれほど力を失うほどの怪我を。 「ともかく、手当をしなければ。心配いらない、後で国親も来てくれる。大丈夫だ、きっと彼ならお前の怪我ぐらいなんとかしてくれる……」  自分にも言い聞かせるように口にして、俺は心光をひとまず地面に横たえる。怪我をしているのなら傷口を塞がなければいけないだろう。心光の具合を確認しようと手を伸ばすと、彼は小さく笑った。 「ああ、まったく、どいつもこいつも、お人好しがすぎる……」  その言葉は、きっと影のものだろう。彼は皮肉げに笑うと俺の手当てを拒み、よろよろと起き上がろうとした。しかし、手当てをしなければどうなるかわからない。俺は心光を引き留めようとしたが、振りほどかれる。 「心光、」 「気に入らない、気に入らない。どいつもこいつも、ああ、どうして、どうしてこうなるのだろうなあ、蘇芳」 「何の話だ、心光」  問えば、彼は小さく首を振って吐き捨てる。 「この男にだって怒りも悲しみもあるのに、どうしてもそれを抑えようとする。代わりに暴き憤ってやっても、最後は私に抗う始末。おかげでこのざまというわけだ……」  そう呟いて、心光は俺を一瞥する。 「それに、お前もお前だ。鬼とされたこと、私にされたことへ思うところはあっても、こうして私を憐れみ助けようとする。ああ、お前たちは本当にどうしようもないお人好しで、だからこそ、お前たち自身さえ救えやしないのだ。それをわかっていて、それでもお人好しであろうとするのだ。ああ、馬鹿らしい、救いようがない、ああ……」 「心光……もしかして、お前は……」  心光の口から漏れる、影の言葉に俺はひとつの答えを感じつつあった。  この影は、もしかして。心光の、俺の代わりに世への怒りを露にしているのだろうか。身を呪われ追われることになってさえ、逃げ嘆くことしかできなかった俺たちの代わりに。  だが何故だ。心光に憑いているのは、世への負の感情が渦巻いた怨霊だ、と国親が言っていた。だというのにこの影はどうして今でさえ、一種の憐みのようなことを考えているんだ。  その時、俺はふと思い至る。  国親は心光と影が、魂で繋がっていると言っていた。心光のどこまでも清らかな心が、影の考えに影響をもたらすことはないのだろうか。この世を憎みたくても憎みきれない、そういう心光の気持ちを汲んで、彼自身もまた「お人好し」に近づいているのでは。

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