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8-6 怨霊の心
「何を考えている、蘇芳」
赤い瞳が、俺を睨みつけている。心光は、忌々しげに表情を歪めているが、その顔にはいくらか汗が見え、いかにも血色が悪い。怪我の痛みもあるだろうが、俺が思っている以上にその傷は深刻なものなのかもしれなかった。
「心光、いや、影と呼んだほうがいいか。どちらにせよ、今のお前が何を考え何をしたいとしても、まずはその傷を治さないと。傷の具合が悪ければ、心光は死んでしまう。それはお前だって望まないことだろう」
「…………」
「だから、大人しく手当てを受けてくれ」
「……ははっ、ははは! そうやって私を言いくるめて、またあの牢に閉じ込め祓う方法でも考えるか!? 心光を救い己も救われる道でも探し求めて、幼子のように月にでも願いをかけるか!?」
馬鹿らしい、と心光は首を振って吐き捨てる。
「お前たちがどれほど善き心でいようとも、この世が奈落であることばかりは変えられぬ。仮に私を祓い、お前が鬼でなくなったとて、必ず同じことは理由を変えて起こる! 善き者は弱き者で、悪しき者が強き者なのだ。お前たちが覚悟を決め、他者を貶め幸福を奪い自らを守らぬことにはな! そうでなければ、そうでなければ、『私』は、『わたくし』は、『俺』は……!」
その時、心光が呻いて蹲る。俺が声をかける間も無く、彼は小さく呟いた。
「……心光が、お前が、変われないのなら……。俺が、俺が心光を、守らなきゃ……」
「……まさか……」
その言葉に、俺はようやっと気づいた。
怨霊とはこの世に満ちる負の感情。心光がその怨霊に憑りつかれた時、そのそばにはまさに、無念の死を迎えた友人が──宿陽がいたはずだ。
では、その無念の気持ちはどうなった。彼もまた心光と同じ僧だったから、表向きは憎悪を抱かなかったかもしれない。だが、心光を守ろうとした彼の、守り切れず殺されたその強い苦しみは。
それこそは、怨霊となる負の感情なのではないか。そして……その無念すらも取り込んだ怨霊が、今、心光の中にいるのでは──。
「蘇芳……!」
心光が、俺を見上げて笑う。その真っ赤な瞳には、一種の執念が宿っているようにも見えた。
「お前の考えているとおり、この身は傷を負っている。放っておけば死んでしまうかもしれぬ」
「なら、手当をさせてくれ、でないと心光もお前も……」
「いいや、蘇芳。私にはお前がいる」
「俺? 何を言いたいんだ、心光」
困惑していると、心光はゆらりと立ち上がって言った。
「そうとも。確かに私は怪我をして、今にも死んでしまいそうだ。しかし、ここに生きた鬼がいる。鬼の血肉を屠れば、いかにも力が湧きそうではないか?」
「何……」
動揺する俺に、心光は笑って告げた。
「そうとも、私がそう信じれば、鬼の血肉は何よりも強い生命の源となる! お前を殺して屠り、心光が絶望すれば今度こそ怪異と成り果て傷も塞がろうもの。そしてこの都に、この世に溢れかえる罪人どもことごとくを葬り去るのだ。そうすれば、心光も幸せだろう? 裏切られることも、捨てられることも、穢されることも脅かされることもないのだから!」
支離滅裂だ。俺は眉を寄せる。
そんなことをして、一体誰が救われるというのだ。追い詰められ混乱し、影も正気でいられなくなっているのだろう。なんとか、止めなければ。
「……っ、そんなのは詭弁だ、心光がそんなことを望むわけがない! いいから大人しく……」
「くどいぞ、蘇芳」
心光はにぃっと微笑みを浮かべ、影を揺らめかせる。その無数の切っ先が、俺に狙いを定めて蠢いた。
「心光を救いたいのなら、私の糧となれ。私は決してお前の言うことなど聞かぬぞ。私を止めたければ、私を殺せばいい! 心優しく愚かなお前にできるものならな!」
心光の影は、俺を仕留めようと激しく攻撃をしかけてきた。その鋭利な影の刃先には、確かな殺意が見える。彼が本気だということはよくわかった。
鬼の血肉を貪れば、傷も癒え力が増す。馬鹿げた思い込みだが、あの影ならきっとそれを現実にしてしまうのだろうという確信もあった。
だが、いかに心光の身体のみが生きていけたとしても、彼の望むような結末は許しがたい。しかし、ではどうすればいいのか。影は大人しく手当をさせてはくれないだろう。以前のようには檻にも入ってくれるまい。そしてまた形を変えて脱走し、いずれはどうにもならなくなる日も来るかもしれない。
だが手をこまねいていれば、それこそ心光の肉体が死んでしまう可能性もある。そうすれば彼の魂が、怨霊から解放されることもわかっている。しかしそれでは心光の身も魂も罪を負ったままだ。人を殺め血を啜った人喰い僧としての死を迎えることになる。あの世があるのかは知らないが、そんな者が浄土に行けるなどとは思えない。きっと地獄に落ちることだろう。それこそ、人の罪を裁く鬼がいるような、そんな奈落に──。
──鬼──。
俺はその時、ようやっとひとつの答えに辿り着いた。だがそんなことをしても、心光が、俺たちが救われる確証はない。迷う俺を、心光の影は的確に切りつけようとする。それを必死で避けながらも、俺は心光を見た。
その表情こそ、影の支配のせいで笑っているが、顔色はいよいよ悪く、呼吸も荒い。あまり時間は無いように見えた。焦りつつも、俺は少しずつ心光へと距離を詰めていく。
だが、俺のほうからは手が出せない。心光を無駄に傷つけるわけにもいかないし、影の攻撃は苛烈なものだったから。
「どうした、蘇芳! お前もやはり、自分の命が惜しいか? 早く私に血肉を喰らわせねば、この男の身体がもたんかもしれんぞ?」
「……っ」
「ああ、それとも、お前の愛しい心光の言葉で懇願したほうがいいのか? ああ蘇芳、わたくしの為に、どうか身を捧げてくださいませ。哀れで愚かなわたくしは、我が身が惜しいのでございます……」
俺を苛立たせたくてやっているのだろう。心光は妖艶に笑いさえしていた。俺はそれに眉を寄せ、首を振る。
「どうかしているのはお前だろう。影」
「なにを、」
「お前は長く心光と同じでありすぎた。本当は憎しみしかなかった怨霊のお前にも、情だの憐憫だのが湧いているんだろうよ。だからお前は俺を殺せない。口ではそんなことを言いながら、俺が自ら血肉を差し出さないことには本気で攻撃できないんだろう」
わざと挑発すれば、影は表情を歪める。赤い瞳は揺れ、怒りの色を浮かべていた。
「図に乗るなよ、愚かな鬼! いいだろう! 遊んでやるつもりだったが、今すぐ八つ裂きにしてやる! この男の糧となることをあの世で喜べ!」
心光の影が、一斉に槍の如く俺に向かい伸びる。俺はそれをかわしながら、心光の懐へと入り込もうとした。
「させるか!」
その瞬間、心光の足元から影を突き出そうとするのが見える。俺がそれを避けるだろうと思ってのことだろう。だから俺はそれを避けずに、受けた。
「っ!」
どすどす、と脚が貫かれる痛みと衝撃を感じ、眉を寄せる。目の前で心光は驚いたような表情を浮かべ、一瞬怯んだ。それを逃さず、俺は心光の身を抱き寄せる。
「っこの期に及んで、愚かな鬼が! また私を人だと説き伏せでもするつもりか?! どれだけお前が囁こうと、この身が怪異である事実ばかりは変えられぬぞ!」
そう笑う影に、俺は低く答えた。
「わかっているさ。だから俺は──」
『人喰い鬼』の、俺は。お前を、喰らう。
そう呟いて、心光の白く細い首筋に、喰らいついた。
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