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8-7 影

 それは、宿陽が死んだ夜。心光が、影を受け入れた夜。満月が輝き、血潮が舞った、あの明るき夜のこと。  死体の山の中央で。宿陽の亡骸を抱いたまま、心光は嗚咽を零していた。  繰り返し「わたくしが誘わなければ」「わたくしがいなければ」「わたくしが宿陽を殺した」と嘆き、涙を零し続ける心光に、影は満足していた。  これできっと、この男の心も壊れる。そうすれば肉体を奪うのも容易い。そして、この暗き恨みを晴らすのだ。影はそんなことを考えて、それからふと思う。  恨み、とは? いったい己は、何に恨みを抱いているのか?  心光の身に宿るまではっきりとしていたはずなのに、今は不思議なことに曖昧だ。心光の魂と繋がってしまったから、かもしれない。それが故に影は、不自然な状態になってしまった。  強い恨みはある、怒りはある。しかし何に向けていいのかわからない。  それならば、心光に強い恨みを感じさせれば良いだろう。影は思いつき、心光の内面に囁きかけた。 『なあ、お前。私と一緒に恨みを晴らそう。宿陽の仇を取りたいだろう? 罪人どもを、お前を傷付けた全てを殺したいだろう? ここにいる連中と同じように』  私に身を預ければ、お前の願いは全て叶えられるぞ。  その声に、心光はしばし嘆きの声を留める。溢れる涙をそのままに、心光の身はぎりと唇を噛み、そのせいで血が滲み紅をさしたようだった。 『なあ、なあ。私と一緒に、恨みを晴らそう。この世の皆を葬ってしまおう』  続けて囁けば、心光は小さく首を横に振って、震える声で答えた。 「……わたくしは、そのようなことは致しません……」 『何を言う。この村のことごとくを葬っておいて、今更善人ぶるつもりか?』 「…………」  心光は震える息を吐き出し、それから答える。 「そうです、わたくしは怒りと憎しみに負け、あなたに身を任せた愚かな男。今更全てをあなたのせいにするつもりはありません」 『なら……』 「ですが」  心光は影の言葉を遮る。血に染まった手をぎゅっと握り締め、彼は力強く言い切った。 「わたくしはあなたに、全てを任せたりなどしない。わたくしの身体で、好き勝手などさせるものですか……!」  その濡れた亜麻色の瞳には、強い決意が宿っている。影は一瞬驚き、それから大きく笑った。 『好き勝手されておいて、何を言う。お前にはもう私を止めることも、追い出すことなどできんぞ。私はお前の身体で、私の好きにさせてもらう。いずれお前の精神も奪い、この身体を我が物にするのだからなぁ』 「……ならば、わたくしは最後まで抗いましょう。あなたに決して罪無き人を殺めさせたりなどしない。わたくしの全てを奪わせたりなどしない。あなたにこの世を、人を愛する心を与え、仏の道へと導く。もしそれが叶わぬのならば……」  わたくしは、あなたと共に死にましょう。  心光の言葉に、影はまた、大きく笑った。お前にそんな覚悟があるのなら、こんなことにはなっていないのだと。お前のような心の弱い人間に何ができようかと。  そんな言葉を交わした、夜があった──。  口の中に、血の味が広がる。熱い血潮が、唇を伝い顎にまで滴る。  抱き締めた心光の身が、びくりとひきつる。逃れようとするのを押さえつけ、さらに深く牙を立てれば、「ァ」と心光の喉から呼吸とも声ともつかぬ声が漏れた。心光の指が、俺の身へ縋るように爪を立てる。まるで最後の抵抗のように。  俺は、人喰い鬼だ。  人喰い鬼というのは、すなわち『人』を喰うのだ。怪異ではない。『人』を。それなら、今俺に噛み殺されようとしている心光は、純然たる『人』なのだ。  そこには怪異の混ざる余地などない。事実として、人喰い鬼に食われる『人』がいる。心光は、ただの人。哀れでか弱く、けれど清らかで強い、そんな僧でしかない。  心光が怪異である、という事実を。人喰い鬼に喰われた人、という事実で、上書きする。  そうすることできっと、いや、必ず心光はただの人へと戻り、彼に憑りついていた影は心光の中へいられなくなる。そう、信じる。そうなるのだ。  牙を立てた心光の首筋から口を離せば、その傷口からごぼりと血が溢れる。彼の唇がはくはくと動き、その影が揺れ散り散りになっていく。揺れる瞳からは赤みが失われ、亜麻色の瞳へと戻っていく──。  がくり、と心光の身から力が抜け、俺は彼を抱き留める。その顔を見れば、心光は涙で濡れた眼を穏やかに細めた。その表情は、影のそれではない。きっとこれは、心光自身の。  そう考えた俺の前に、黒く蠢くものが現れた。それは一定の形を取れず、ときに獣、ときに人のような形に変わりながら、何重もの声が重なっているように濁った声を放った。 『おのれ、おのれ、蘇芳! 私をその男から引き離すなど! ああ、守らせろ、恨みを晴らさせろ、殺させろ!』  怒りを露にするそれはしかし、実体もなく宙で揺らめいているばかりだった。なるほど、これこそは怨霊なのだ、と俺はひどく冷静に思う。  言葉には、その存在そのものには何の力も無いというのに。それが人の口を、身体を借りれば、害を成すのだ。これこそはまさに呪いだろう。  心光の身体をぎゅっと抱き寄せ、その身を守ってやれば、影は怒り狂うように蠢いて、真っ赤な瞳で俺を睨みつけた。 『そうだ、今度はお前に憑りついてやろうか! 私の力を求めろ、より強い鬼となればその男の命も救えるやもしれんぞ!』 「……確かに。お前の力が備われば、俺は強大な力を持つ鬼になるかもな」 『そうだとも、なあ、お前だって憎いだろう、心光を追い詰めたこの世の有象無象が。本当は怒りも悲しみもあるだろう、それを受け入れても何も解決はせん、お前の心が傷付くばかりだ。それをお前の代わりに発散してやると言っているんだ、いい話だろう──』 「ああ、確かに俺にだって怒りも悲しみもある。……それに、お前を憐れんでもいるよ」 『……私を、憐れむ?』  赤い瞳が驚くように見開かれる。  そう。俺はあの影に、怨霊に、怒りも覚えている。だが同時に、ひどく憐れんでいた。この存在もまた、世に溢れる憎悪の連鎖から生まれた、悲しきものなのだから。  だからこそ、こうするのが一番良かったのだと思う。  俺の視界の端で、白いものが動いている。影は俺のほうばかりを見ていて、最後まで気づきはしなかった。刹那、実体のない筈の影に、白虎が襲い掛かる。 『うわっ、な、何をっ、やめろ……!』  白虎が咆哮を上げ、影に喰らいつくと、影は苦痛を感じているかのように蠢いて、逃れようともがいた。そんな影に、いつのまにやら駆けつけてくれた国親が、にこりと笑って言った。 「はいはい、こうなっちゃったらもう私の専門分野だからね。怨霊の扱いは任せておくれ。封印退治更生式神化、なんでもできちゃうからね」 『やめろ、いやだ、私は……助けてくれ! 心光、蘇芳!』  悲痛な声で叫ぶ影に、容赦なく国親が札を叩きつける。瞬間、何か光る陣が札より溢れて、鳥かごのように影を包む。  最後に見た時、影はどこか、僧のような姿を見せた。手を伸ばし、俺たちに助けを求めながらも、影は一瞬で鳥かごの中に包まれ、そして札を残して全てが姿を消してしまった。  あまりにも呆気ない、終焉。  けれど確かに、 影との一連の因縁が、ようやっと終わったのだ。

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