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8-8 呪い

「蘇芳……」  掠れた声に、はっと心光を見る。彼は血の気が失せた顔をしていたが、そこには穏やかな表情も浮かんでいた。影に気付かれないよう、首筋の傷を手で塞いではいたものの、深く牙を立てたそこからはまだ出血が続いている。  俺が心光を喰うと、喰い殺すと。影も、俺も信じなければいけなかった。生半可な演技では事実に敵わない。俺も本気だった。  けれど、心光に死んでほしくなど、ないのだ。 「心光、しっかりしろ。大丈夫。お前は助かる……」  流れ出る血を見せないようにしながら、囁く。亜麻色の瞳を揺らめかせ、心光は俺を見上げると、複雑な表情をする。微笑むような、あるいは嘆くような。けれどそこに、どこか安堵もあるような。そんな顔を。 「ああ、蘇芳……ごめんなさい……わたくしのせいで……わたくしが、あなたを本物の人喰い鬼にしてしまった……」  心光の手が、弱弱しく伸ばされ、俺の頬に触れる。彼の瞳に映る俺は、どんな姿なのだろうか。それこそ、人喰い鬼と呼ぶにふさわしいものなのかもしれない。だが、俺に後悔はなかった。こうすることで心光を、あの影から救えたというのなら、それで。  それでいい。ただ、心光が生きて、救われてくれれば。その為には、心光に生き延びてもらわねばならない。 「俺のことは気にしなくていい。とにかく、気をしっかり持って、生きるんだ」 「……しかし、わたくしはたくさんの人を傷つけました……」 「だがそれは、あの怨霊に憑りつかれたせいだろう」 「いいえ、いいえ蘇芳……」  心光は小さく首を振る。その眼には、透き通った涙が浮かんでいた。 「わたくしは確かに、思ったのです。この世が憎いと。わたくしを捨てた家を恨み、わたくしを辱めた和尚様を厭い、宿陽を襲った者たちの死を望んだのです。わたくしに罪はあります……」  その言葉に、今度は俺が首を振る番だった。 「思うだけなら、誰だってするだろうよ。怒りも悲しみも、憎しみも恨みも持ってしまうのが人だろう。心光、お前は仏に近づこうと修行はしていたが、それでも人なんだ。心を持つことに、気持ちを昂らせることそのものに、なんの罪がある……」  お前がされてきたことに比べたら。心光の頬にひとつ口付けを落とすと、彼の目から涙が零れ落ちる。  俺の言葉は届いてはいる。心光自身もどこかでわかってはいるだろう。ただ、そうであっても受け入れ難いものが、あるだけで。 「それでも、わたくしは……わたくしが生きのびるわけには……。この手で殺めた人にも、宿陽にも、申し訳が立ちません……」 「……心光……」  心光が、はぁっと苦しげな息を吐き出す。血が止まらない。  俺の指の合間から、こぼれ落ちる心光の命。まるで彼自身が、これ以上生きることを拒絶しているかのようだった。  いや、実際そうなのだろう。なんと言えば。どうしてやれば、彼は救われるのだろうか。本当に、死こそが救いなのか。そんなことが、認められようものか。  どうしたら、どうしたらいい。  絶望的な気持ちと、歯がゆさに手が震えた、その時だ。 「いいのかい、心光君」  影の処理が終わったのか、国親がゆっくりと近付いてきた。心光が、のろのろと彼のほうを向くと、国親は優しく笑って囁く。 「君が今死んじゃうと、蘇芳君が本当に人殺しの人喰い鬼になっちゃうけど、それでいいの?」 「…………!」  その言葉に、心光が目を見開く。戸惑う瞳が、俺のことを見つめた。俺はといえば、苦い気持ちになる。  ああ、国親は今、心光に脅しをかけているんだ。その結果が、心光の望みに沿うかどうかなど関係無く。 「君が死んで罪を償いたいのもわかるし、楽になりたいのもわかるよ。だから別に止めはしないけどさ。君、ここで死んだら蘇芳君を人喰い鬼にしてしまったばかりか、またひとりぼっちにさせちゃうんだけど、それで大丈夫?」 「……そんな、……それは、……」  それは、呪いの言葉だ。  己の罪を認め、償いを求める心光を、この世に繋ぎとめるもの。それこそは、確かに陰陽師の「呪詛」だろう。俺は改めて、安倍国親という男が、この都でも高名な陰陽師であることを思い知っていた。  だが、俺にはどうにも。国親の言葉を止めることができない。  俺だって。心光を失いたくなど、ないのだ。俺の姿かたちがどうであろうと、これからどうなろうと知ったことではない。けれどこの美しく憐れな僧を、手放せないのだ。そんな欲が渦巻いているのに、俺は心光のためときれいごとを並べている。この手は彼を生かそうと傷口を覆い、今も国親の口を塞ぎはしないのに。 「あの怨霊に憑りつかれていたとはいえ。ここまでずっと助けられてきた、君を支えてきた蘇芳君のこと、放っておいて、ひとりで逝っちゃうの? 心光君。あの時とは違って、今の君になら……蘇芳君を救えるのに?」  酷い物言いだ。本当に卑怯で、どうしようもなく残酷な言葉。  心光が唇を震わせ、俺を見つめる。逡巡しているのはわかる。だが、あまり時間をかければ間に合わなくなる。  全てわかっていて、俺は心光へ、静かに囁いた。 「心光、お前の願いを叶えてやりたい。救ってやりたい。本当に。だが、それでも、それでもな、心光……」  俺をもう、ひとりにしないでほしいんだ、心光。  最後の言葉は、震える喉から絞り出す。どんなに酷いことを言っているか、わかる。ああ、俺もまさに鬼だろう。こんなことを心光に告げるのだから。  それでも、涙が溢れるほどに。今すぐ強く抱きしめ、叫びたいほどに。  心光と、離れがたい。 「……蘇芳……」  心光もまた、幾筋も涙を零して。  やがて、彼はぽつりとひとつ呟いた。

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