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エピローグ1 救い

 昨夜からの雪は、都に冷たく降り続けている。空は淡い鼠色の雲に覆われ、空気は澄み渡り静かだ。薄雪に黒い足跡が映える。時折、ぱさりと音を立てて木の枝葉から雪が零れ落ちた。  しゃくしゃくと雪道を歩いていた俺は、足跡の主を知る。国親の屋敷の前には、ひとりの女性が立っていた。厚手の上着を羽織った、尼のようだった。しかしその顔には覚えがある。  心光の母、雪子のようだった。 「ああ、……おぬし……」  雪子は俺を見ると、一瞬息を呑んだけれど、すぐに微笑みを浮かべる。彼女は小さく頭を下げ、「定光のこと、本当に感謝しておる」と呟く。 「いや、俺は……」  俺にしてみれば、本当に俺のしたことが良かったのかもわからないままだ。どう返すか悩んでいると、雪子はぽつぽつと語る。 「謙遜するでない。おぬしがいなければ、我が子は今頃怪異の類として祓われるか、退治されていたことであろう。定光が人として死を迎えられるというのなら、それが私にとっても幸いじゃ」 「…………」 「だが、私の祈りも足りなかったのであろうな。呪詛などに負けぬほど、私が定光の幸福を願っていれば、こんなことにはならなんだかもしれぬ。私もまた、我が身が哀れで嘆くばかりだったのじゃ。しかし、これからは違う。仏門に入り、生涯をかけて子の幸いを、成仏を願おうではないか」  その機会を与えてくれた。おぬしにも、国親様にも感謝してもしきれぬ。  雪子はそう言って笑う。その言葉にも、なんと答えていいのやら。俺が口ごもっている間に、屋敷の入口が開いた。今日も明るい笑顔に国親が現れ、雪子に深々と礼をすると、彼女を屋敷の中へと案内し始める。俺もまた、他にすることもないので後を追った。 「国親様。定光のこと、本当に……」 「いえいえ、私はすべきことをしたまででございますから。その結果、雪子様のお役に立てたのなら嬉しい限りです。さ、こちらの部屋ですよ」  国親はそう言って、とある部屋へと雪子を導いた。後ろから追う俺は、ただその光景を見ている。雪子は部屋の中を見つめて、涙を浮かべ、それから俺や国親のことさえ忘れたように駆け出し、室内へと飛び込むと、声を上げた。 「定光、定光……!」  雪子が強く強く抱きしめている相手。それは首に、腹に痛々しい傷跡を残したまま、この屋敷に残っていた心光だ。 「……母上……」  心光もまた、長い時を越えた再会に、母の胸へ抱かれたまま静かに涙しているのだった。  心光は、生きることを選んだ。  いや、あの時は選ばざるをえなかった、ともいうだろう。心光の中にはまだ迷いがある様子だったが、俺を人喰い鬼にすることだけはならない、と決めたのだ。  万人が鬼と呼ぼうと、わたくしはあなたを信じる。そう言った心光が、自身の言葉を裏切らないように。心光は俺を、ただの鬼のままでいさせてくれた。  傷は深く、治りは遅い。それもまた、心光の葛藤の影響かもしれなかったが、どうにか塞がった。  あの日心光を檻から出してしまったのは、義弟だったそうだ。俺には理由もわからないが、彼は病弱だったらしいのに、近頃は不思議と体調も良く、無事に花山院の家督も継げそうだとか。兄に合わせる顔は無いが、礼を伝えてほしいと言付けられた。様々な理由を、俺はまだ、問えなかった。  影は……国親のもとで鎮められている。長い時をかければ、怨霊もその怒りを手放せる。そうすれば、式神にするなり、野に返すなりやりようはあるらしい。  だがもし、あの怨霊に宿陽の魂も含まれていたなら。不安になって尋ねたが、国親は首を振った。  怨霊に宿るのは、思念だけ。魂というものがあるのだとして、それは怨霊に含まれているものとは別だ、と。少なくとも、国親はそう信じている。だから、宿陽が無事成仏したと思ったほうがいい。そう信じることで、それは事実になるのだから、とのこと。  だから俺も、祈るしかない。宿陽が、心光が、俺が──あの影が、救われたのだと。信じるしかなかった。  だが結局、俺は鬼のままだ。俺がそう望んでいるから。  どれほど善く生きても、人の願いや思いは世を動かしてしまう。心光が、俺があの時、逃げるしかないほど無力だったように、その大きな流れに人のままでは抗えない。俺が鬼であることでしか、守れないものもある。清く生きる為には、皮肉なことだが清く生きられないほどの強い力を持たねばいけないのだ。  しかしそれでは、俺は鬼として迫害される日々を送ることだろう。だから、国親は新たな「呪い」を使った。 「赤い鬼は、善き人間の友である。赤い鬼は、善い鬼である」  そうまことしやかに流布したのだ。悪い噂が怨霊を生むように、良い噂が善人を作る。ましてやそれが、高名な安倍国親のお墨付きとあらば尚のこと。  こうして俺は、この世に存在してもよい、人の味方である赤鬼となった。  それこそが、俺たちの辿り着いた、一応の「救い」だ。少なくとも、今のところは。

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