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「あなたに想われてる人、可哀想よ。」 それは、マコちゃん以外の相手に言われて、一番突き刺さった言葉かも知れない。 またいつものように、名前もちゃんと聞き取れないような爆音の中で知り合った女の人と一緒に居た。 いつも通りイイ感じになって、いつも通りに相手の家で夜を明かそうとして。 でもその時に聞かれたのが。 「好きな人は居ないの?」 付き合ってる人は居ないの?彼女は居ないの?って確認される事は何度もあったし、居ないよって答えてた。だって事実だから。 あるいは、浮気相手なんてイヤよ、ワンナイトなんてお断りよ、みたいなことも今まで散々言われてきた。そんなの口先だけだって分かってたから気にも留めなかった。 でも今回のは、そういうのとは違って。 答える事ができなかった。首を横に振る事ができなかった。 男だから、そういう生き物だから、ホントに心から好きじゃなきゃ出来ないって事はないのだ。だから普通に、当たり前のようにエッチしたし、向こうもそうさせてくれた。そこまでは良かった。 「ねーぇ?」 聞いてきた女の人は確か少し年上で、長い髪はサラサラで、裸のまま、その髪を片耳にかける仕草がセクシーだった。 「こんな事しちゃってから聞くのも悪いんだけど…」 またいつものように返すものだと思ってた。 事が終わってから聞かれるパターンていうのも意外と多いもので、どさくさに紛れて2回戦目に突入なんてのも珍しくない流れで。面倒になって来たら切ればいい、無かった事にすればいい、って思って話半分で聞こうとしてた。 でもそれができなかった。 「あなた…好きな人は居ないの?」 「え?」 ちょっと予想外だったから、思わず聞き返してしまった。女の人は目線を逸らして、自分の髪を梳かしながら、少し寂しそうな様子で 「たぶん居るんでしょうね。さっきも私と寝ながら、その人のことを考えてたんでしょう。」 「なに言って、そんなこと…」 ない、と言い切れなかった。都合が悪くなれば嘘なんていくらでも吐けたし、普段からそれが当たり前だったのに。 この時ばかりは、初めて出会った相手にいきなり一番痛い所を突かれたような気がして、何も言葉が出て来なかった。 黙っていると女の人は少しうんざりしたような顔をして、 「やっぱりね。私っていっつもそう。二番目で良いの。」 なんて言いながら、ベッドから出て、床に脱ぎ捨ててあった服を拾って、ちょっと乱暴に投げ付けてきた。 「あなたに想われてる人、可哀想よ。」 裸の女の人に説教をされる形になって、やっと自分の気持ちに気付く事ができた。 もしかしたら、マコちゃんのことが好きなのかも知れないって。だから、ないって言い切れなかったんじゃないかって。 それからは、あんまり覚えてない。 今日はトントン拍子に事が進んで、いつもより早い時間で、でももう電車は動いてなくて。何となく、知ってる気がする道をとにかく走って走って。そうする内に涙が出てきた。 マコちゃんに悪い事をしてしまったんだって。 マコちゃんが可哀想。マコちゃんを大事にしなかった。一番好きな人かもしれない、大事にしなきゃいけない相手かも知れないのに。 それを伝えたくなって、時々吐きそうになりながら、嗚咽と嘔吐きで死にそうになりながら、とにかく走り続けた。 やがて周囲が見慣れた街並みになって、暖かい季節にはジョギングコースにもしていた桜並木の川沿いに来た。 深夜の川沿いは暗くて、街頭の光もまばらで、不気味なほど静かだった。 橋を渡る時に少し立ち止まって、欄干に手を掛けた。 このまま飛び込んでしまいたい衝動に駆られた。光も音もない真っ暗な中に、溶け込んでしまいたい。何もかも無かった事にして、ここから、今という現実から逃げ出したい。 夜風に吹かれながら、誰も居ない橋の上でそんな事を考えていた。 でも、今はダメ。やるとしても、最期にマコちゃんに会ってからだ。ちゃんと、好きかも知れないって伝えなきゃ。 欄干から無理やり引き離した身体に、歯を食い縛って力を入れて、また走り出す。はあはあと上がった息が苦しい。身体中の色んな所が痛い。 マコちゃんに会って、謝って、好きかも知れないって伝えたら、ギュッてしてもらうんだ。いつもみたいに。死ぬのはその後だ。 そんな風にマコちゃんのことを考えただけでますます涙が出てきて、自分の家でもない家路を急いだ。 マコちゃんの家に帰ると、見た事の無い靴が並んでいた。高い踵の付いた真っ赤なエナメルのピンヒール、金色のスパンコールのついたパンプス、地味な焦げ茶のローファー。 一瞬、入る部屋を間違えたのかと思った。出迎えてくれるチィも居ない。けれど、女の人の物にしては、サイズが大きいように見えるそれらを除けば、いつもと同じ。 リビングからは笑い声が聞こえていた。マコちゃんじゃない。マコちゃんはいつもとにかく冷静で、あんまり大きな声で笑ったり怒ったり泣いたりしないから。 恐る恐るリビングに行くと、知らない人が居た。しかも一人じゃなく、三人も。 「あらぁ!このコがマロンの言ってた仔猫ちゃん!?」 その中の一人がいきなり口を開いた。喋り方が少しだけマコちゃんに似ているけれど、声はしゃがれていた。 メイクをしてキラキラした服を着ている二人と、ド派手な柄のついた服を着た一人。 「何よ、ガキじゃないの!」 「て言うか、ホントにまだ未成年なんじゃない?」 予想もしていなかった状況に、驚いて動けなくなってしまう。三人はソファーにせせこましく座って、テーブルの上におつまみを広げて、空のグラスを並べてテレビを点けていた。 次々に言葉が飛び交い、度々口にされる"マロン"というのが、他の誰でもないマコちゃんのことを指している事に気付いた。それは、マコちゃんと知り合うきっかけになったオンラインゲームで、マコちゃん自身が使っていたアカウントのユーザーネームだった。 「あのマロンが囲うくらいだから、どんな男かと思ってたけどぉ…」 「でも顔は悪くないんじゃない?」 「そうね、あと十年すればもっとイイ男になるかも。」 「ひょっとしたら今でもスゴイのかも知れないわよ?」 「やーだー!あはははは!」 天井を向いて笑う三人。 怖いと思った。また泣きたくなって、着ている上着の裾をギュッと掴んで堪える。 「あ、の、マコちゃんは…」 震える声を絞り出して聞くと、三人は一度顔を見合わせて、それからまた大声で笑った。 「マコちゃん!?ボク、マロンのことマコちゃんって呼んでるの!?」 「あっ!マコトだから、マコちゃんなんでしょ!」 「そっかそっかぁ、マコちゃんねぇ!」 「可愛いじゃない!あんな見た目だけど!」 「あの見た目でマコちゃんって!」 少し、マコちゃんのことをバカにされているような気がした。 でも言い返せなかったのは、三人とマコちゃんの間に、そう遠くないものを感じたから。一緒に暮らしていても踏み込めずに居る、マコちゃんの知らない部分。多分かなり古い付き合いなんだろうなと予想はできた。涙は引っ込んでしまった。 ソファーの向こうを見ると、部屋の隅で縮こまっているチィが居た。駆け寄って、同じように小さく丸まりながらギュッと抱き締める。すると、ソファーの背もたれ越しに声が降ってきた。 「ボク、心配しなくてイイのよ。マ…コちゃんならすぐ戻ってくるから。」 「そうそう。今、お酒買いに行ってるの。」 そう言われたタイミングで、玄関のドアが開いた音がした。 「ほーら、噂をすれば!」 ガサガサというビニールの音と、聞き慣れた足音が近付いてきて、廊下とリビングを繋ぐドアが開く。重そうなビニール袋を両手に提げたマコちゃんが入ってきた。 ソファーに座っているうちの一人が声を掛ける。 「お帰りー!買い出しお疲れさま!」 「ホントお疲れ様よぉ、お酒って何でこんなに重いのかしら!やんなっちゃう!」 大声で言い返すマコちゃん。買ってきたお酒をキッチンに運び入れ、袋から出し始めた。マコちゃんの言葉を受けて、一人が何かを思い出したように話し始める。 「今はもう全部ネット注文にして宅配にしちゃってるわぁ〜ドライバーのイケメンには何往復もさせて悪いけど」 「ええっ!往復って…家にどれだけお酒届けさせてるの?酒蔵にするつもり?」 「やーね、店よ店!ほら、昔は買い出し行ったりしてたでしょ?」 「あははは!家にあんな量頼んでたら、お兄さんもビックリしちゃうわよ!」 矢継ぎ早に続く会話を聞いていたマコちゃんが、声を張り上げて加わる。 「そう!さっきの店員!この量レジに持ってったら、あからさまにビックリしちゃって!アタシが一人で飲むとでも思ってるのかしら!」 そう言うと、三人がまた笑った。 「そりゃアータ、こんな時間にそんな量買い込む客なんて、フられてヤケ酒キメ込んでるアル中くらいしか居ないじゃない!」 そう言われて、マコちゃんはまた同じように大声で言い返す。 「失礼しちゃう!普段のアタシ、ここでは飲まないのよっ!」 「あらそうなの?」 「マロンが一滴も飲まないですって?」 「正気?」 三人から口々に冷やかすように言われ、マコちゃんは嬉しそうにニヤッと笑う。 「今日は飲むけど!こんな時じゃないと飲めないわよ!」 そんな風に楽しそうに応じているのは、普段のマコちゃんとは別人みたいだった。見た目は間違いなくマコちゃんなのに。 いつものマコちゃんは落ち着いていて、大人っぽくて、滅多に大きい声は出さないのだ。それに、あんまり長い文章を勢いよく一気に喋らないし、愚痴とか、悪口とかも言わない。 「にゃあ」 ビニール袋のガサガサという音が気になったのか、チィが一声鳴いて、腕の中から飛び出してしまった。 ソファーに座った三人がそれを聞き付けて振り向く。その視線が恐くて、サッと目を逸らす。 チィもその視線を感じたのか、リンリンと鈴を鳴らしながら、次々に手を伸ばす三人を躱すようにして、キッチンに行ってしまった。 「ちょっとマロン!お宅の仔猫ちゃん、飼い主の躾が足りてないんじゃなぁい?」 「そうよぉ、ご挨拶くらいしてくれても良いじゃないの?」 キッチンに入ってきたチィに気付いたマコちゃんは、カロリーが気になるからたまにしかあげない事にしている缶詰を戸棚から出して、開けているらしかった。パキッと金属の割れる軽い音がする。 「なーに言ってるの、チィは良い子よ。アータたちが来た時にご挨拶したじゃない。」 間延びした声で言い返され、顔を見合わせてくすくす笑う三人。 「違うわよ、チィちゃんじゃなくて。」 「えっ?」 缶詰を小皿に移し、一度屈んでチィの前に置いたマコちゃんがやっと顔を上げる。 「もう一人居るでしょ?カワイイ仔猫ちゃん。」 そこで初めて、マコちゃんと目が合った。 ドサッと荷物を床に落としたのが聞こえた。キッチンの中で固まっているマコちゃんと、部屋の一番遠い所で、見詰め合う形になる。 「…嘘でしょ」 小さく呟いたマコちゃんから、楽しそうな笑顔が一瞬で消えた。マコちゃんが驚くのも当たり前だ。まさかこんな事になるなんて、誰一人として思っていなかったのだから。 「やだ、どうしましょ、ずっと居たの?居たわよねそりゃあ…」 マコちゃんが困っているのは明らかだった。そわそわして、口元に手をやりながら、オロオロし始める。 「あのね、違うのよ、これは…」 まるで浮気現場を見られてしまった女の人が言い訳をするような、早口だけどどこか弱々しい口調で言葉を並べていく。ここまで取り乱しているマコちゃんを見るのは初めてだった。 女の人に怒られて、裸で説教されて、泣いて帰ってきて。マコちゃんに伝えなきゃいけないことがあって、ギュッてして安心させてもらおうと思っていた考えなんて、どこかに飛んで行ってしまった。 ソファーの三人がまた口を開く。 「ちょっと、坊やの前では猫かぶってたって言うの?」 「ネコがネコかぶるなんて!どんなダジャレよ!」 「あーははははは!」 「お黙りッ!!」 ついにマコちゃんがキレた。裏返った高い声で怒鳴り、三人を静かにさせる。 でも、これで分かった。 マコちゃんは、普段は無理をしていたんだ。 いつもとにかく冷静で、あんまり大きな声で笑ったり怒ったり泣いたりしないマコちゃんは、カッコイイ。でもそれは全部、嘘の姿だった。 だって、こんなに楽しそうなマコちゃんを見た事が無かったから。大きな声で笑ったり怒ったり、立て続けにいっぱい喋ったりするところなんて見た事が無かった。 つまり、今まで二人で一緒に居ても楽しい事なんて、無かったってこと。 居ても立ってもいられなくて、すり抜けるようにしてリビングを飛び出した。 マコちゃんが呼び止めようとする声が聞こえた。 でも振り返る事なんてできない。また玄関に出て、スニーカーを突っ掛けて、その場から逃げ出した。

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