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3/3(完)

のんびりと湯船に浸かっていると、上着を忘れてきた事に気が付いた。橋の下で脱がされた時のままだ。 この家に転がり込んだ時からずっと着ていて、もうかなり傷んでいた安物だし、もういいかと諦めもつく。何よりまたここに戻って来られている事を、嬉しいと感じていた。 大勢の足音が玄関の方へ向かうのが聞こえる。マスカットのマス子さんとピーチ・パインさんとグァバさんと、マコちゃんの声。別れの挨拶と、お見送りをしているようだった。もう帰っちゃうんだなぁ、と思う。悪い人たちじゃなかった。帰ってきた事で、折角の集まりを台無しにしてしまった意識もあって、久しぶりに反省しようとする。 でも、やっぱり頭が上手く動かなかった。もうずっと前から、考える力が無くなってしまって、自分がどうするべきなのか、どうするべきだったのかなんて分かるワケがない気がした。 「今日は、悪かったわね。色々あって疲れたでしょう。」 お風呂から上がり、髪を乾かしたマコちゃんがリビングに戻ってきた。同じシャンプーの筈なのに、とっても良い匂い。まだ少し湿気って、つやつやになった肌から立ちのぼる温かい空気に乗って流れてくる。 時間は朝の4時半。いつもならすっかり酔っ払って、イイ感じになった女の人の部屋で事を終えているくらいだろうか。今は身も心もさっぱりとして、マコちゃんの家のソファーに横になっている。何だか夢みたいに思えた。 「あの人たちは…マコちゃんの友達?」 確認するように訊ねると、マコちゃんは小さく笑って、眼鏡を一度押し上げる。 「そうよ、もう何年も会ってなかったんだけど。」 三人は、昔マコちゃんがよく通っていた店の常連客と、その店のママだそうだ。そのお店の名前が『マスカット』といい、マスカットのマス子さんは男性だけどママで、ピーチ・パインさんとグァバさんとマコちゃんは、年齢も職業も趣味も好みのタイプもバラバラだけど、ウマが合うというやつなのか、よく一緒に遊んでいた。 マコちゃんがここに引っ越して来てからはたまに連絡を取り合うだけになっていたが、最近大失恋してしまったマスカットのマス子さんを慰めるという名目の旅行で、近くまで来る事になった。そこでマコちゃんは、いつも夜は家に一人だと言って三人を招いたらしい。 「お酒を買って戻ったら、まさかあんな事になるなんて…私もびっくりしちゃった。」 経緯を話しながら、マコちゃんは温かい飲み物を二つ作って持ってきて、テレビとソファーの間に置かれたローテーブルに置く。 投げ出していた両足が一度持ち上げられて、その下をくぐるようにしてソファーに座ったマコちゃんの腿の上に乗せられた。何も言わず、足の指や、裏や、脛、ふくらはぎなんかをマッサージしてくれる。まるでひざに乗せた猫の背中を撫でるように、愛おしそうにそうされながら、空いた片足の踵や土踏まずで、マコちゃんの脚の間を擦るようにしていた。 こうしていると、ずっと前にマコちゃんが、病院に迎えに来てくれた時のことを思い出す。アルバイト先で手元を狂わせて、救急車で運ばれて、夜間用の緊急受付を通って、腕を何針か縫う手術を受けて。 消灯時間もとうに過ぎた、ほとんどの照明が消された薄暗いロビーに行くと、沢山ある長椅子の一つに、マコちゃんが一人でぽつんと座っていた。 肌寒くなってきた季節。見慣れたカーディガンに包まれたその背中を見ただけで、どうしようもなく安心して、胸が苦しくなったのを覚えている。 マコちゃんの運転する車の中で、アルバイト先で起きた事や感じた事、もう仕事は続けられないかも知れない事も伝えた。 「そう…そんなにつらかったのね。」 一通り話し終えた頃、マコちゃんはそう言った。全部を包み込んで受け入れてくれるような優しい声だった。 雨が降ってきて、フロントガラスに滴って流れてくる水滴が、信号や街灯の光を歪めてキラキラ光っていた。そらを退けるワイパーの、フロントガラスという狭い範囲を一生懸命に右往左往しているだけで、根元はずっと同じ場所に留まったままの誰かさんみたいな動きをぼんやりと見ていた。 赤信号で停まった時、マコちゃんは両手の指を軽やかに動かして、リズムを刻むようにハンドルを叩いていた。音を聞いて視線を移した先にあったそれが、優雅なくらいに動く手が、どことなくセクシーで、思わずそそられた。 カーセックスはした事が無かった。当然準備なんてしている筈もなくて、でもどうしても我慢できそうになかったから、すぐ近くの公園の脇に車を停めて、シートベルトを外して、マコちゃんにしゃぶってもらった。 マコちゃんが寒いって言うから服は着たまま。その襟から片手を突っ込んで胸や背中を触り、靴を脱いで、脛や足の甲をマコちゃんの股の間に擦り付けていた。そこが少しずつ膨らんで、ズボン越しでも形が分かるほどになっても、止めなかった。包帯で固定された手は流石に動かせないから、耳は触ってあげられなかった。 運転して帰らなきゃいけないから汚したくないって言った綺麗な手が、行き場所を探すみたいに、お腹の上に置かれていた。じんわりと温かくなって、汗が滲み出てきていた。 「それ、キモチいい…マコちゃん…」 ジュポッ、ジュポッと音を立てて上下する度に、マコちゃんに濡らされているのが、暗い中でてらてらと光っているのが見えた。普段とは逆の、攻められる側の立場になっても、もっとこうして欲しいとかそういうのが無くて、ただマコちゃんに気持ちよくしてもらっていた。 マコちゃんが、口の中に出したのを一滴も零さずに飲み込んで、更に残ったのも吸い上げて舐め取って、きれいにしてくれる頃には、窓ガラスが曇っていた。 「それにしても、恥ずかしい所を見られちゃったわ。」 マコちゃんの声で我に還る。 今日だけで何度も、意識を失いそうになっている。頭がぼーっとして、何が起こっているのかを理解するのに、しばらく時間が掛かる。記憶があちこちに飛び回って、色んな場面が浮かんでは消えて、本当に色んな事があったんだなぁなんて今は他人事みたいに思う。 内側にモヤがかかったみたいな、回っていない頭で聞き返した。 「なんで?」 「なんでって…普段の私が、あんな風じゃないのは分かるでしょう?」 「でも、マコちゃんはマコちゃんだよ。」 自然にそんな言葉が出た。役立たずな脳を介さずに、思っていることが口からするすると漏れ出てくるみたいな感じ。でもその方が今は良いのかも知れない。 本当のことだったから。大きな声で笑って怒って、いっぱい喋って、楽しそうにしてたのは、間違いなくマコちゃんだったのだ。 「それは…」 珍しく、マコちゃんの歯切れが悪くなる。 ソファーの上に起き上がって、すっかり解れた足を床に下ろす。それから、肩が触れるほど近付き、マコちゃんの顔を覗き込んだ。 「普段のマコちゃんは、ムリしてるの?」 またしてもするりと、疑問が口から出ていた。好き勝手しながらも踏み込まないようにしていた、マコちゃんの知らない部分。聞いてはいけない気がして、聞いたらお互いに上手くいかなくなる気がしていたこと。知らなくてもやって行けてるから。誰にだって、言いたくないことは幾らでもある筈だ。 向こうが聞いて来ないから、こっちも聞けずにいるところもあった。聞いたら教えてくれそうなことでも、踏み込むのを躊躇してしまって、何も聞けないまま。マコちゃんについて知らない事を知ろうとするのは、いけない気がして。知らなくてもやって行けてるから、知らずに済む事はあるのかも。そして、それはお互い様かも知れないって。 でも、訊いてしまっていた。 「何ですって?」 マコちゃんが聞き返してくる。外国人っぽい顔立ちを更に際立たせる、パッと見はブラウンだけど色素の薄いグレーやブルーの混じったような、不思議な色した目。じっと見つめられ、少したじろいでしまう。 「ムリして、ホントの自分を抑え込んでる…」 「ホントの自分?どういうこと?」 「だから…さっきのがホントのマコちゃんで、今こうしてるのは、そんな自分を殺した…ムリしてるマコちゃん…」 回る事を拒否する頭を無理やり動かし、モヤの中を探して、色んな場所に散らばった言葉を繋ぐ。まとまっていなくても構わない。頭のいいマコちゃんなら、代わりに言いたいことを理解してくれる筈だ。 マコちゃんが笑って顔の前で手を振る。ひらひらと揺れるそれが、ちらちらと視界を揺らす。 「やーねぇ、無理なんかしてな」 「ホントのマコちゃんはどっちなの?」 遮るように畳み掛けた。今なら、何でも教えてくれそうな気がした。マコちゃんにとっては、言い逃れできない状況だからだ。まるでつけ込むようなやり方ではあるけれど、どうしても知っておきたいヒミツ。 膝の上に手を下ろしたマコちゃんが、困ったように眉根を寄せて笑う。 「どっち、とかじゃないのよ…どっちも私。」 その答えがよく分からなくて首を傾げると、マコちゃんは何かを教えてくれる時のように人差し指を立てた。 「ほら、アンタも私と居る時と、女のコと遊ぶ時じゃ、全然その…違うでしょ?」 それと同じようなものよ、と言って腕を伸ばし、マグカップから紅茶を一口飲む。 外で遊んでいるところをマコちゃんに見られたわけでもないのに、どうしてそんな事まで分かるんだろう。 「あぁ、ダメね私ったら…」 少しの沈黙の後、ドラマの台詞みたいなことを口にして、額に手を添えるマコちゃん。整った顔と、スタイルの良さと、綺麗な手でマグカップを持った姿は、本当にドラマの中から飛び出してきたみたいだ。カフェインレスでオーガニックの、紅茶のいい匂いがふわっと漂う。 「可愛い子にそんな風に思わせちゃうなんて。」 それからマコちゃんは、普段ほとんど話さない自分についてのことを、話してくれた。 「マロンっていうのは、元々アイツらが呼び出したの。」 でも可愛いから私もつい気に入っちゃって、と恥ずかしそうに、そして少し何かを諦めたような口調で打ち明ける。 「ほら、私の名前ってありふれてるでしょ。クラスとか、近所にでも居そうな。女のコにだって居るかも。」 クリハラ マコト。それがマコちゃんの本名だ。直接教えてもらったわけじゃないが、マコちゃんの代わりに郵便を受け取る事があるから、覚えてしまった。 実は今まで、マコトという名前の女の人とは、なるべくそういう関係にならないようにしていた。そもそも名前を覚えるのは得意じゃないけれど、間違えて、マコちゃん、なんて呼んでしまわない自信が無かったから。女の人とエッチしている時にもマコちゃんの顔が浮かんでしまったら、何もかもぶち壊してしまいそうだったから。 でも、と思う。 ──さっきも私と寝ながら、その人のことを考えてたんでしょう。 女の人に言われた言葉が蘇ってくる。名前が同じじゃなかったとしても、既にマコちゃんのことは無意識の内に考えていたんだ。 「改めてこんな話するの、変な感じね。」 恥ずかしそうに肩を竦めるマコちゃん。今まで躊躇してしまって踏み込めなかった部分を、やっと聞けた。そう思うと、もっと先へ進める気がした。言えなかったことなんかも、今ならようやく言えるかも知れない。 「マコちゃん。」 改めて呼ぶと、マコちゃんの不思議な色をした二つの目が見つめてくる。全てを見透かされるんじゃないかと思うほど真っ直ぐに。 ぐ、と言葉が喉につっかえて、出て来なくなった。喉仏だけが動く。きゅうっと喉が絞まってしまう。 「上着、さっきの所で脱いだままなんだ…」 誤魔化してしまった。 ついさっきまでの自信に似た感覚は何だったのか。マコちゃんの目を見て気持ちを伝えるなんて、できそうになかった。 言われて初めて気付いた様子で、マコちゃんが両手を打つ。 「さすがに気が付かなかったわ。」 ウチに来た時から着てたジャケットでしょう?とすぐに理解してくれる。でも何かを言う前に、マコちゃんはふふっと笑って 「まあ、いいんじゃない。」 珍しく、動き出そうとしなかった。いつもなら颯爽と行ってしまうのに、今はこうしているのが心地良いみたいに。 「今度女の子とデートする時、新しいの買いなさいな。」 まるで名案だとでもいう風でそう言って、にっこりと笑った。一言も、言い返せなかった。 朝も夜もない生活を送るチィが寄ってきて、空いたマコちゃんの膝の上に乗った。 チィは元々行儀も聞き分けも良くて、マコちゃんの躾の甲斐もあって、テーブルの上に乗ったり、マグカップを倒したりする事はなかった。 「あら、起こしちゃった?」 今度はチィの首元を擽るように撫でて、背中をマッサージし始めるマコちゃん。大きくて温かい手は常に何かをしようと動いていて、器用で、どんな相手でも気持ちよくしてしまう。 チィは少しするとマコちゃんの膝の上に後ろ足で立って、前足をマコちゃんの胸に突いて、ピスピスと小さく鼻を鳴らす。それからマコちゃんの鼻の頭に、ちょんとキスをした。 「うん、良い子ねぇ。」 慣れた風でそう言って、チィの狭い額にキスを返すマコちゃん。一人と一匹の世界という感じで疎外感が湧いてくるが、同時に微笑ましくも思う。マコちゃんとチィだけが、この世界の全てみたいに思えてくる。実際に、そうなのかも知れない。 そう言えば、とマコちゃんが顔を上げる。 「色々あって忘れてたけど、遊びに行ったのに帰ってきたの、初めてよね。」 自分自身も忘れていた。何をしに戻ってきたのか。あんな距離を必死に走って、一秒でも早くマコちゃんに会わなければならなかった理由。 そう思うと、カーッと顔が熱くなるのを感じた。こんな、告白みたいな事なんてした事がない。恥ずかしくなって、マコちゃんの顔を見られなくなってしまう。 「うん…」 ソファーの上に足を上げ、膝を抱えて返事をする。 ここで、何かあったの?と聞いて来ないのがマコちゃんの優しさだった。話したければ聞いてくれるし、話したくなければ深くは触れないわ、という感じで、これまでずっと。だから、マコちゃんと話していないことも沢山あるのだ。 ストーカーまがいの元カノが包丁で刺そうとしてきた顛末とか、大学を辞めて親と喧嘩した経緯とか。匿ってくれた時も、転がり込んだ時も、今と同じだった。 今日も帰ってきた理由をなかなか言い出せずに居ると、マコちゃんがふっと視線を下げたのが分かった。 「そっか。」 と何かを察したように優しく言って、マグカップを持って立ち上がる。話したくないのだと、思われたのだろう。 「こんな時間になっちゃったわ。長話しちゃってごめんなさい。」 そう言われて、時計を見ようと見上げたカーテンの向こう側では、もう朝日が上り始めている。 「ゆっくり休んで。私も洗い物をしたら寝る事にする。」 マコちゃんの低い声が続く。片手に空になったマグカップを二つぶら下げて大きく伸びをすると、その手の先は天井に触れてしまいそうだった。 キッチンに入ったマコちゃんが洗い物を始める。さっきまで居た人数分のグラスと、おつまみの載っていた皿と、チィの使った小皿と、二つのマグカップ。手際が良いので、チャンスはほんの短い時間しかない。ザーッという水流の音に掻き消されてしまうように、わざと小さく呟いた。 「マコちゃんのこと、好きかも知れない…」 案の定、マコちゃんは返事どころか、振り向きもしない。その事にすごく安心していた。 ペットと飼い主なんだ。確かに猫じゃなくて人間だし、チィとは違う。でも、言葉が話せるからといって、面と向かって気持ちを伝えても良い理由にはならない。 もしも伝えたら、今こうして成り立っている関係が壊れてしまう。好きかも知れない人を、困らせてしまう。捨てられる事はできないから。 こんなに長い間、一人のことを考え続けた相手なんて居ないくらい、居なくなったら生きて行けないくらいに大好きかも知れない人を、そんな形で苦しめてしまうのが怖くなった。 可哀想なマコちゃんには、好きかも知れないなんて、やっぱり伝えられそうにない。

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