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1 海戸:晩メシをサボる日はせつなくなる
空のふちで、あんず色の夕陽がふくらんでいる。けやきの葉が一斉に鳴った。緑のにおいが湿っていた。そろそろ残暑がおわるっぽい。
夕空を追うように、丘の遊歩道をくだっていく。早歩きの女子高生、スマホを睨んでいるサラリーマン、ロータリーの警官、いろんな人とすれ違って入った駅前のスーパーは、空気がどんよりしていた。冷房がついていない。襟をゆるめ、海鮮コーナーに直行した。
☆
美術館の、真新しいパンフレットには、ちぎり絵が載っていた。その細くひび割れた星空をさびしく感じていると、「刺身、うまそうだな」あくびをするみたいに照路 が言った。きのうの話だ。ソファーに寝ころぶ彼のスマホでは、ユーチューバーが刺身を盛りつけていた。
「あした出すよ」
「ほんとに?」
「うん」
「海戸 はすごいな~。さすがおれの嫁さん」
抱き寄せられて、照路の胸に耳を置くと、風呂上がりの香りの底で、心臓がじんわり灯っていた。
☆
まぐろ・真鯛・サーモンの三点盛りを二パック、量の多いあじの刺身を一パック、かごに入れ、それからお惣菜コーナーで、ごま団子を凝視しているおじさんの横からするっと、うずらの串揚げと餃子をゲットし、会計を済ました。
高いなーと丸めたレシートを買い物袋に捨てて、丘を戻るときの、ミスマッチだったかな、という気がかりは、仕事の疲れでなかったことにした。サボる日は徹底的にサボりたい。
☆
さんま皿に刺身を、楕円皿にうずらの串揚げと餃子を移した。椅子に座って眺める。蛍光灯で、刺身がプラスチックみたいに見えて、安っぽい。スーパーのって気づくかな。気づくよな。と苦笑する。魚をさばく練習したほうがいいかな。
声変わり間際の学生が外で笑っている。
一人暮らしのころは、具なしの、焼うどん・チャーハン・ケチャップライス・おかゆをローテーションし、飽きたら冷凍食品やスーパーのお惣菜を挟んでいた。料理に興味がなかった。それなのに照路と付き合いはじめて、同棲に至ると、おれが料理当番になっていた。
まあ照路の帰りが遅いし、あいつはネコのほうが料理をつくるなんていう変な価値観があるみたいで、かといって、おれもそれに対して不満はなく、けどメシをつくるたび、かあちゃんってすごかったんだなーと感服するくらいには、自分の料理下手さに嫌気がさす。
「しかも見栄っぱり」
パンフレットを取って、ベランダに出た。
建ち並ぶマンションのあいだは、虫食いみたいに暗い木立で、ひと際明るいのは、公園のテニスコート。その奥の、ろうそくを集めたみたいな地平線は、照路の職場のある都会のほう。
おれの地元より夜空が明るいせいで、このあたりの星は窮屈 そうだ。方角が悪く、月は見えない。ダイニングキッチンの明かりが届かず、パンフレットも読めない。――無名だからね。受付の、吉見さんの声は機械みたいに整っている。――作品に困って、親族がここに寄贈したみたい。
小学校の図工でちぎり絵をしたことがある。のりはベタベタするし、紙片は指から離れないしで、イライラした。あと首が痛かった。
あのころのおれに、これに生涯を賭けた人がいるなんて伝えたらきっと、ヨーリョー悪いね、って答えるかもしれない。そしてそれに、いまのおれはこう答えるのだ。――ヨーリョー悪いけど、かっこいいよな。
夜空のすみに、うすく白く電灯がもれた。しばらくして、ガラガラと掃き出し窓があいた。
「ただいま」
「おかえり」
体温が背中を覆った。視線を下げたおれの頬に、コーヒーくさい唇がキスをした。
「腹へった」
「ごはんよそったらな」
「ムラムラする」
尻ごしに押しつけられたものに、おれは笑ってしまった。
「せっかく感傷的な気分だったのになー」
「それなに?」
「展覧会のパンフ」
「へー。有名な人?」
「ぜんぜん」
「じゃあ人来ないね」
「きょう、スーパーの出来合いだからな」
「知ってる」
キスしてくる照路をどけて部屋に入り、鍵をしめた。照路は両手で囲った口を窓ガラスにあてて、「おれは猛獣じゃないぞー。解放しろー」と抗議し、茶碗を二つ出したおれは炊飯器をあけた。
美術館で言われた老夫婦の言葉に、頬がゆるむ。
――ステキな絵だね。
おわり
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