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1 海戸:晩メシをサボった日
空のふちで、あんず色の夕陽がふくらんでいる。それを追うように、丘の遊歩道をくだっていく。早歩きの女子高生、スマホを睨むサラリーマン、ロータリーの警官、いろんな人とすれちがって、駅前のスーパーに入った。冷房がついていない。襟をゆるめ、海鮮コーナーに直行した。
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美術館の、真新しいパンフレットには、ちぎり絵が載っていた。その細くひび割れた星空をさびしく感じていると、「うまそうだな」と照路 が言った。きのうの話だ。ソファーに寝ころぶ彼のスマホでは、ユーチューバーが刺身を盛りつけていた。
「あした出すよ」
「さばけるの⁉」
「……たぶん」
「海戸 はすごいな~」
抱き寄せられて、照路の胸に耳を置いた。風呂上がりの香りの底で、心臓がじんわり灯っていた。
⁂
まぐろ・真鯛・サーモンの三点盛りを二パック、量の多いあじの刺身を一パック、かごに入れた。それからお惣菜コーナーで、うずらの串揚げと餃子をゲットし、会計を済ました。高いなーと丸めたレシートを買い物袋に捨てて、丘をのぼる。テキトーに買いすぎたかな、と心配になったが、仕事の疲れで考えるのをやめた。サボる日は徹底的にサボりたい。
マンションに帰って、買ったものを盛りつけた。椅子に座って眺める。刺身が安っぽい。
(魚さばく練習しようかな……)
ため息をついた。
一人暮らしのころは、同じものばかりつくって、食べていた。なのに照路と同棲すると、おれが料理当番になっていた。照路のほうが帰りが遅いのだ。
パンフレットを取って、ベランダに出た。布団のような風が吹き上がった。闇のなかで街路樹が鳴る。照路はどのあたりにいるだろう、と考える。駅には着いているはずだ。暗い住宅街の向こうには、マンション群があって、その奥の、ひときわ明るい場所が、最寄駅だ。星が一、二個見えた。
――無名だからね。
受付の吉見さんの声は、淡々としていた。
――作品に困って、親族がここに寄贈したみたい。
小学校の図工で、ちぎり絵をしたことがある。のりはベタベタするし、紙片は指から離れないし、イライラした。あのころのおれに、これに生涯を賭けた人がいるなんて伝えたらきっと、――ヨーリョー悪いね。って答えたかもしれない。そしてそれに、いまのおれはこう答えるのだ。――ヨーリョー悪いけど、かっこいいよな。
夜空のすみに、白い電灯がさした。しばらくして、掃きだし窓が開いた。
「ただいま」
「おかえり」
体温が背中を覆った。おれの頬に、コーヒーくさい唇がキスをした。
「腹へった」
「メシよそったらな」
「ムラムラする」
尻ごしに押しつけられたものに、おれは笑ってしまった。
「それ何?」
「展覧会のパンフ」
「有名な人?」
「ぜんぜん」
「じゃあ人こないね」
「きょう、スーパーの出来合いだからな」
「知ってる」
キスしてくる照路をどけて部屋に入り、鍵を閉めた。照路は両手で囲った口を窓ガラスにあてて、何事か抗議する。おれは茶碗を二個だして、炊飯器を開けた。
美術館で言われた老夫婦の言葉に、頬がゆるむ。
――すてきな絵だね。
おわり
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