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Ⅰ
「菅野、お前明日から来なくて良いよ」
三十歳の誕生日を目前に、菅野正義は厳しい現実に直面していた。
数ヶ月間続けていたバイト先からの突然の通告。幾ら数ヶ月前までは引きこもりであろうとも、正義はそれなりに頑張ってきていた。
バイト先で出来た可愛い後輩の彼女にクビになった事を連絡しても返事は無し。まだ授業中なのかと諦めて携帯電話を仕舞うとそれを待っていたかのように正義はある声に呼び止められた。
「ミャア」
声の主に足を止め振り返ると、そこに居たのはまだ生後数ヶ月だろう、小さな仔猫が段ボールに入れられていた。庇護欲を掻き立てるその姿に正義は心を動かされるが、バイトをクビになったばかりの正義に買う甲斐性も無く、おまけに1Kのアパートはペット不可だ。
「ごめんな。飼ってやりたいのはやまやまなんだけどさ……」
コンビニで購入をした安いビニル傘を傾けると、仔猫はそれに応えるように再び「ミャア」と鳴いた。
与えられる餌も無い。傘をその場に置いて正義は立ち去る決意をした。きっと誰か良い人が拾ってくれる。自分で無くともきっと誰かが。
立ち去ろうと正義が背中を向けると雨の雑音の中、ユラユラと眩しい光が近付いてくる事に気が付いた。車だろうか、やけに近付くスピードが早い。
大型のトラックだ。誰の目から見ても明らかに蛇行運転をしながらも間違いなく近付いてくる。正義が咄嗟に振り返ったのは背後の段ボール箱。このままでは間違いなく猫が巻き添えを喰らうだろう。
正義が再び振り返り、屈んで箱ごと猫を抱き抱える。それだけの動作であるにも関わらず、向かってくるトラックに足がすくんでしまいそのまま動けなくなってしまった。
(ヤバイ、俺童貞のまま死ぬのかよ……!)
しかし次の瞬間、正義が目にしたのは信じられない光景だった。
ぐちゃぐちゃに潰れたトラックのフロント部分。蜘蛛の巣状に皹が入ったガラスの向こう側にはエアバックが見え、運転手もどうやら無事らしい。
何が起こったのかを見ていた人物は居たのだろうか。少なくとも正義は恐怖から目を瞑ってしまい見ては居なかった。
大破し停止したトラックと正義との間に一人の男性がトラックに向かう形で立って居た。歳は自分と同じ位だろうか、くせ毛で傷んだ正義とは違い、雨の中状態が良いと分かるサラサラの髪質。またその立ち姿も線が細く、漫画で良くあるヒーローの登場シーンのようで正義は思わずあんぐりと口を開けて見上げていた。
「……おい」
その言葉が正義自身に掛けられたものだと気付くのには時間がかかった。ぼーっと見つめていた相手が正義を振り返ると不意に腕を掴まれ、ビクッと反応を示すと相手は直ぐに掴んでいた手を離した。
「ごめん」
「あ、すいません……」
「怪我は無い?」
「無い、です」
顔を見て正義は困惑した。相手が男性か女性かの判断が付かなかったからだ。ただ、その後に掛けられた声のトーンから直ぐに男性であると考え直した。
正義は暫く困惑していたが、実際要した時間はそれほどでも無いだろう。目の前に立つ男性とその先にある大破したトラック。その二つを見比べると無意識に相手の腕を掴んでいた。
「今の、貴方がやったんですか?」
男の表情が、正義の一言で僅かに動いた。
ただの人間にこんな芸当が出来る訳が無い。正に"魔法"。半信半疑のままではあったが、正義はその手を離せないままでいた。
「その猫、君の?」
男の視線は正義が今も大事そうに両腕に抱え込んでいる仔猫に向けられていた。
「いや……ここに捨てられてたんだけど飼えなくて……」
事故を目撃した一般市民が警察に電話をしたり、運転席から運転手を救助したりという喧騒の中、正義の目には男の姿しか、耳には男の声しか入らなかった。
雨は強さを増しており、道路に尻餅を着いた状態の正義は身体中がずぶ濡れ。男は水の滴る長い前髪を掻き上げると、正義が猫の為に置いた傘を拾って手渡した。
「その子と一緒に着いておいで」
正義の質問には何一つ答えていない男だったが、ただその言葉に従い片手には傘、片手には仔猫をしっかりと抱き締め前を歩く男の後を着いて行った。
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