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Ⅱ
事故現場からそう遠く無く、少し歩いたところで男は立ち止まり目の前のビルを指差した。雑居とは言えないそれなりにテナント料の掛かりそうなビルだった。
「此処、俺の職場だから」
男はそう言い、正面のエレベーターに向かい歩いて行く。入り口のテナント表示を一見するも、テナント名が書いてあったのはたった一つだけだった。
最上階である七階に書いてあった『谷脇調査事務所』。正義がエレベーターに乗り込むと男は七階のボタンを押した。
動物の持ち込みが多少気になったものの、一緒にと言い出したのは男の方なので、正義は黙ってエレベーターの階数表示を見ていた。男の意図は分からないが、トラックに轢かれかけるという緊張感から解放された今、不意に自身の濡れた衣服から伝わる冷気に寒気をもよおした。
エレベーターが七階に着くと男が先に降り、正義がその後を負う。目の前にあったのは『谷脇調査事務所』の表札が掛けられた立派な扉。
「どうぞ」
男は扉を開いて正義を招き入れる。中は普通の事務所のようだったが、幾分かは豪華な気がした。正面に応接セットが一つと、更にその奥にはオフィス用のテーブルが一つ。左右にはそれぞれ扉がある。
男は正義に応接セットのソファに腰を下ろす事をすすめ、濡れてしまう事で恐縮はしたが大人しく着席をする事にした。
話し声が聞こえたのか、双方の扉がほぼ同時に開き、それぞれ一人ずつ出てくる。右側の扉からは柔和な感じの好青年。それとなくチャラい雰囲気も見受けられる。左側の扉からは背が高めで爽やかだがしっかりとした印象を受ける青年。二人は同時にソファに座っている正義に視線を向け、続いていつの間にか四人分の珈琲の準備を整えた盆を持った先程の男に向かって声を掛けた。
「お客様?総次」
『総次』。それがこの男性の名前に違いない。正義はそう思った。総次に声を掛けたのは右側から出てきたチャラいほうの男性だ。
「違いますよ。猫を此処で飼えないかと思って。彼が拾ってくれたんです。えぇと…」
「え?」
総次はテーブルに盆を置くと正義に珈琲を差し出しながら首を傾げた。
「ごめんなさい。お名前は何でしたっけ?」
「え、あっ、俺は……菅野正義ですっ!」
総次が名前を求めていたのにも気付かず、直ぐに口から出た言葉の詰まり具合にも、正義はこの時ほど自分のコミュニケーション能力の低さを呪った事は無い。
「菅野さん、ですね。遅くなりまして、俺は綾瀬総次と言います」
「綾瀬、総次さん……」
「あ、ミルクが無い」
珈琲を出したは良いが、猫用のミルクを忘れたと総次は一度座ったソファから立ち上がる。何故か総次が座っていた場所の隣にはチャラい方の男が座っていた。
「菅野さん」
「は、はいっ」
「申し遅れました。私はこの調査事務所の所長、谷脇透と申します」
そう言いながら、チャラい男が差し出した名刺には『谷脇調査事務所 所長 谷脇透』と書かれていた。
「総次、牛乳は買いに行かないと無いぞ」
「えー進さんまた直飲みして全部使っちゃったんでしょ」
正義の位置からは見えない箇所にある冷蔵庫を開けながら総次ともう一人の男、進の話す声が聞こえる。
「俺、総ちゃんのミルクで良いよー」
「ははっ、死ね」
ソファから立ち上がり二人から聞こえるように言った透の言葉に、正義は飲み掛けの珈琲を吹き出した。
「ああごめんなさい。大丈夫ですか?」
「だっ、大丈夫です……」
ただ、そのお陰で正義の緊張は解れ、聞かなければならない事を思い出した。
「あの、谷脇……さん?」
「はい?」
「あの人……あの人は何者なんですか?」
「あの人って総次の事ですか?」
「はい!」
「あいつが何かしたんですか?」
「だって!おかしいですよ普通に考えたら!気が付いたら瞬間移動みたいに俺の前に居て!おまけにトラックだってあんなにぐちゃぐちゃになって!」
正義の突然の捲し立てに透は事情が呑み込めず、ただぽかんと口を開けて正義を見ていた。
「ああそうそう。さっきそこでさ、酔っ払い運転が猫拾ったこの人に突っ込んで来てたから」
まだ冷蔵庫のある場所に居るらしい総次から声だけが聞こえてきた。
「説明省くなよな総ちゃんさ……」
「あんなの、あんな、魔法みたいな出来事!」
ようやく疑問に思っていた事が口に出来た正義の感情は中々おさまらなかった。気が付いたら興奮し過ぎていて、ソファからは立ち上がり、机を叩いていた。何故ここまで激昂しなければならなかったのかは正義にも分からない。
「魔法ですよ?」
透はそんな正義に怯む事無くニコニコと笑みを浮かべて言う。
「……まさか。そんな事ある訳無いじゃないですか」
「三十まで童貞だと魔法使いになれるって聞いた事ありませんか?」
インターネットで良くある話題だ。正義もネタとしては知ってはいたが、勿論本当にそんな事があるとは思ってはいない。しかし、正義自身もあと数日で童貞のまま三十歳をむかえる身。もしかしてと妄想する事はあったが、本当に魔法使いになれるものだとは露ほども思っていなかった。
そんな正義の表情を読み取ったのか、透は笑顔を浮かべたまま続ける。
「間違い無く、総次は魔法使いですよ。そして童貞です」
「余計な事まで言わなくて良いでしょ」
「童貞って事?」
正義が声に振り返ると、総次が底の浅い皿にミルクを入れて持っていた。
確かに、先程のやり取りからすると牛乳は既に無くなっているはずなので、今此処に皿に入れたミルクがあるという事は魔法で出したという事になるのだろうか。総次が床に皿を置くと仔猫が近寄り小さな舌を出してペロペロと舐め出す。
「総次、タオルも必要じゃないか?」
「あっ、そうですね」
「菅野さん、良く見てて下さいね」
進の言葉に、総次は濡れた身体を拭く為のタオルも必要だと思い出し、透はその瞬間を見逃さないようにと正義に注視させた。
次の瞬間、正義は再び己の見たものを疑う事になる。
確かに総次の両手には何も無かった。しかしその何も無い両手の上に突然タオルが現れたのだ。前触れも無く。
勿論タネのあるマジックであるという事も否定は出来ない。それでも、先程の謎のトラックのフロント大破、そして今の何も無い空間から突然現れたタオル。魔法として認識する以外の選択肢を正義は持ち合わせてはいなかった。
引きこもり時代の正義はインターネットは勿論のこと、アニメなども良く見ていた。その中でも特に魔法を使える少女達の話はお気に入りだったが、まさかあのアニメの話が現実に目の前で起こりうるなど考えもしなかった。しかも、少女ではなく三十歳を越えた青年で。契約などではなく童貞で。
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