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「総次」
「春原さん」
総次が進によって連れて来られた病院には、偶然にも総次の知り合いである春原藤吉が医者として勤務していた。
総次が過去に少しだけ精神面に問題を抱えていた事を知っていた藤吉は、然して深い事情を聞く事も無く、総次の養生の為に個室を手配してくれた。
勤務時間の間を縫い総次の様子を見に来た藤吉の白衣の後ろから小さな手が覗いていた。
「具合はどう?」
「ええ、お陰様で大分落ち着きました」
「そう?なら良かった。 ほら、美優ちゃんとご挨拶しなさい」
藤吉に促され、背後からもじもじと姿を現したのは小学校低学年前後の小さな女の子だった。
「……すのはら、みゆうです」
良く耳を凝らさなければ聞こえない程の小さな声に、総次はベッドから起き上がり驚かせないようにそっと美優に近寄り屈み込む。
「こんばんは。お父さんのお友達の綾瀬総次です」
「……こんばんは」
「ごめんねー、この子ちょっと人見知りでさ」
挨拶をすると直ぐに背後に隠れてしまう美優に苦笑を浮かべながら、藤吉は腰元付近にある美優のツインテールを結った頭を撫でる。
「春原さん、今日はもう終わりだったんじゃないんですか?」
「いやあ美優を迎えに行ったらさ、急に連絡が入っちゃって。 今日はこのまま夜勤になりそうなんだよ」
藤吉はシングルファーザーで元から美優に母親は居ない。
「俺で良ければ、終わるまでお預りしましょうか?」
「ほんと?助かるよー」
「……まさか最初からそのつもりで娘さんを連れてきた訳じゃないですよね?」
「いやまさかそんな……ねえ?」
笑って誤魔化したが、全く計画性が無いという訳ではないらしい。特に小さな子供が苦手という訳ではない総次は藤吉の頼みなら、と夜勤が終わるまで美優を預かることを了承した。
美優は現在小学校一年生であるという。徐々に総次に慣れてくると膝の上に乗りながら教えてくれた。
「お兄さんは、どこが痛いの?」
「うん?」
美優の髪にゴムの痕が残らないよう丁寧に櫛を入れていると、美優が唐突に振り返って総次に尋ねた。
「にゅういん、する人はどっか痛いんでしょう?」
「うーん、そうだねえ……」
今まで子供と話す機会など無かった総次にとって、美優と会話をする時間は総次にこれまでに無い安らぎを与えてくれた。ただ、無垢な存在というものは総次にまた別の人物を彷彿とされた。
総次が貴斗の好意に気付いた時、総次には既に恋人が居た。相手から告白をされ、総次にとって初めての相手といえる真人はその時まだ十四歳だった。
売店で買ったインスタントラーメンに、病室で湯を入れたものを夜食とする美優を見ながら、総次はベッドに腰を下ろした。
「パパはね、あんまり料理が上手くないの。 だからみゆうはいつもラーメンなんだよ」
「それはちょっと……栄養面とか考えるとなあ……」
医者である藤吉が愛娘の健康面を一切考えていないという事は考え難いが、藤吉はただでさえ不摂生な部分がある。それでいてかなりのヘビースモーカーでもある。まさかとは思うが、後で藤吉に問い詰めようと総次は心に決めた。
「お父さんには今お付き合いしている女の人はいないの?」
「おつきあい?」
「うんえっと……美優ちゃんのお母さんになってくれるような人とか……」
「……ううん、いなーい」
「そっか……」
自分の体調すらまともに管理を出来ないのだから、娘の為にもせめて母親となる人を見付けて欲しい。余計なお世話かもしれないが、総次は常々藤吉に対してそう思っていた。
「お兄さんが、パパのお嫁さんになってくれる?」
子供というものは、突拍子も無いことを言い出すもので、恐らくそこに悪意などは一つも無いのだろう。
「……お兄さんは、男だからパパのお嫁さんにはなれないかなー」
「そっかぁ……」
この年齢の女児ならば「お父さんのお嫁さんになる」などと言っているものではないだろうか。男手一つで六年間も育ててきた宝物だ。教育方針など、甘やかさずに育ててきたのならば考えが一般的な女児とは異なっていたとしても仕方がないのかもしれない。
「あ、パパにおやすみのキスをしないと」
夜の九時が近付いた頃、時計を見た美優が不意に呟いた。
「そっか、ナースステーションに居ると思うから一緒に行こうか?」
「うん!」
消灯時間となった病院内は思っていたいたより静かで不気味だ。総次もこういったタイミングでさえ無ければ一人で歩き回りたいとは思えない。
ヒタヒタとスリッパの音を響かせながら予め藤吉が詰めていると聞かされていた二階のナースステーションに向かうと、椅子に腰を下ろしてインスタントラーメンを口にしている藤吉の姿があった。
「あっ、パパー!」
「美優」
「おやすみのキスしに来たの」
藤吉を見ると美優は駆け寄り、その後をゆっくりと追うように総次が到着する。
「悪いね、相手して貰っちゃって」
「いえ、それは別に良いんですけど……」
藤吉の膝によじ登り、頬へとおやすみのキスをした美優は就寝の時間を守る為に一足先に駆け足で去っていく。
「けど?」
「余計なお世話だとは思うんですけど、美優ちゃんの食生活もうちょっと考えてあげた方がいいんじゃないですか?」
「ああ、まあうん……俺も思ってはいたんだけどさ」
総次の予想は的中していたらしい。指摘をされた事にバツの悪そうな苦笑を浮かべた藤吉はコーヒーメイカーで淹れたカップを総次に手渡す。
「総次こそ、最近はちゃんと食べてんの?」
「食べてますよちゃんと……」
「じゃあ総次が俺んとこにお嫁さんに来る?」
「どこをどうしたら『じゃあ』に繋がるのか分かりませんけどしませんよ。美優ちゃんと同じこと言わないで下さい」
この親にしてこの子有りか、と総次は溜息を吐いた。勿論ナースステーションには藤吉以外にも詰めている看護師が居る。先程の藤吉の怪しげな言葉に一切動揺を示さないところを見ると既に周知の事実なのだと、総次は勝手に理解する事にした。
「俺も病室に戻ります。 珈琲ご馳走さまでした」
「ごめんね、美優の事よろしくー」
藤吉の言葉に相槌を打ち、総次は来た道を戻り自らの病室に戻る。階段を上がり病室のある五階まで来ると、廊下の窓の向こうに大きな月が見えた。
「ごめんねー美優ちゃん遅くなっちゃっ……」
もしかしたら既に寝ているかもしれない美優を起こさないよう、声を潜めて扉を開けた総次の目に映ったのは、空の病室だった。
戻ったはずの総次の病室からナースコールがあると、不思議そうに藤吉はそれに応答する。
「総次?どうかした?」
「春原さんっ、美優ちゃんがいない!」
「えっ……?」
もしかして寝る前にトイレにでも言ったのではないかと、女性看護師にも手伝いを依頼し見て貰ったが、美優の姿は見付からなかった。
「おかしいな……病院からは出ていないと思うんだけど」
「後探していないところは……春原さん、監視カメラとかは?」
「あ、ああ……行ってみようか」
藤吉はプライベートな問題に総次だけではなく病院すらも巻き込んでしまった事に少なからず責任を感じているようだった。
総次にいくら魔法が使えたとしても超能力では無い。何処に居るかも分からない美優を探す事も、ましてや瞬間的に美優の居る場所へ移動する事も出来ない。
二人揃って監視カメラのある警備員室に向かおうと渡り廊下を歩いて時、総次は先程の月が気になり、ふと窓の外に視線を向ける。
「ッ、美優ちゃん!」
「え、どこ!」
「春原さんあそこ!屋上!」
総次が指を差した先には病院の屋上が見え、屋上のフェンスに掴まる美優の姿があった。美優の身体はフェンスの外側に出ており、何故あんな所にいるのかは定かではないが、手を離せば一気に地上に落下をしてしまう。
「屋上?何でそんなところに!」
「あの真下の部屋、俺の部屋ですよね?俺が行ってきます!」
奇跡的にも、美優がぶら下がっている箇所の真下には総次の病室があった。病室から身を乗り出せば手が届くかもしれない。そう言うと同時に総次は病室に向かって走り出していた。
「あっ、総次!」
総次が先に走り出してしまうと、藤吉は悩んだ結果美優の落下地点となる地上に向かう事にした。しかしこの時間病院内のあらゆる箇所には防犯の為鍵が掛けられており、藤吉がその場所へ駆け付ける為には大回りをしなければならない。悩んでいても解決はしないので、藤吉は走り出した。
他の入院患者を気にする事も無く、総次は五階まで階段で駆け上がった。ただ一秒でも早く病室に辿り着かなければと急いでいた。
しかし、総次が自らの病室に辿り着きドアノブに手を掛けても扉は開かなかった。
「えっ、何で!」
どうやら病室には鍵が掛けられているらしい。オートロックでは無く、中から鍵を掛けられる仕様ではない為、誰かが外から鍵を掛けたという事になる。
「嘘……何でだよ、誰がっ……!」
そのまま何度ドアノブを回しても鍵が開く気配は全く無い。
「おに……ちゃん……パパぁ……」
病室の中から微かに美優の声がした。
「美優ちゃん!待って、今すぐ助けるから!」
扉が開かずにパニックを起こし掛けていた総次だったが、美優の声に息を呑み、手元に意識を集中させると魔法を使い鍵を破壊した。
「美優ちゃ……!」
総次が病室の扉を開いた時、窓の向こうに上から下へと落下をする美優の姿を捉えた。
「美優ちゃん!!」
総次は手を伸ばすが届かなかった。一瞬だけ判断が遅れてしまったのだ。
数秒遅れてどさりと重い物が落ちる音が聞こえた。
「美優!美優!!」
窓の外から藤吉の悲痛な叫び声が聞こえる。総次は目の前の現実を受け止める事が出来ず、一歩ずつ窓際に近付いた。
開かれた窓から真下を恐る恐る覗き込むと、植え込みの中、藤吉が美優の小さな身体を抱き締めているのが見えた。
「どうして……」
自分の力が足らず後一歩のところでこのような事になってしまった。後一瞬早く鍵を破壊していれば。
総次は顔を上げ、目前に輝く月を見上げた。頬には涙が一筋伝っていた。
「誰が……窓を開けたの……?」
美優が居ない事に気付いた時、カーテンも窓も閉まっていた。カーテンを開けて居なかったから、総次は病室に居た間月が綺麗だという事に気付いて居なかった。窓が開いていなければ、美優の声が聞こえるはずも無かった。
「……誰、が」
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