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第一章
『ちか、レオの事なんだけど。お前の家で引き取れない?』
竜之介から予想外の打診電話が来たのは葬儀から数日後の事だった。
亡くなった涼音の長男玲於は小学校六年生の時から不登校となり今年で十九歳になる。七年間の引き籠り生活の間涼音はバーの雇われママをしながら玲於を育てていた。生活能力も無い無職の玲於はそのままアパートに住み続ける事も家賃を支払う事も不可能で、親戚の中で玲於を引き取る条件に合致するのが千景だったと竜之介は言う。
「いや、お前んとこは?」
『俺既婚者だから』
「じゃあとら」
『彼女と同棲中ー』
「っ、忠次叔父さんの子供も居るだろ」
『はい無理ーあそこ三人とも女じゃん』
親戚の中で独身男性は千景だけという結果になった。本家の一室を間借りするという案も出たらしいが、玲於自身がそれを固辞したらしい。その上千景が地元に戻ってきた時から二年前から住んでいる今の部屋は都合良く倉庫に使っている空き部屋が一つ残っていた。
最後に玲於に会ったのは八年よりもっと前だった気がする。いつだったか、玲於は竜之介にべったりとくっつくようになり、千景はとても悲しい思いをしたものだった。葬儀に参加をしなかった玲於のイメージはいつまでも小学生の頃の子犬のようなものだった。
『御影にレオ預けるなんてそれこそちかが嫌でしょ?』
「っ……」
葬儀の後の飲み同様、千景が聞きたくない名前が竜之介から発せられる。御影の名前を出せば千景も断ることは出来まいと考えた上での発言だろう。
――佐野御影、三十四歳。それは紛れもなく血の繋がった千景の実兄の名前だった。
御影という人間を一言で表すのならば、兼ねてから従兄弟の間で密かに囁かれていた【悪魔ゴリラ】が相応だった。千景の母親、牧子の長男。従兄弟陣の中でも最年長のその男は、祖父母にとっては初孫でもあった。
涼音の葬儀にすら声が掛からなかったその男は、九年前に親から勘当を言い渡されていた。
――御影はね、来ないから。声掛けてないの。だから安心していいわよ。
涼音の訃報を聞いた時の母親の言葉が蘇る。同時にちりっとした鋭い痛みが千景の左こめかみに走った。今は良く見なければ分からないそこにはかつて御影によって付けられた火傷の痕が残っていた。爪先で痕を掻くと僅かに皮膚が引き攣っているのが分かる。無遠慮に投げ付けられた煙草――後数センチずれていれば眼球の損傷は免れなかっただろう。
何事をも暴力で支配したがる暴君。その矛先は常に千景へと向けられていた。理不尽に殴られた事は何回あっただろうか。髪を掴み引きずり回された事は。
人を人とも思わぬあの外道が玲於を引き取る訳が無いし、引き取ったところで暴力の矛先が玲於に向かう事は避けたい。それほど千景にとって玲於は大切な弟なのだ。そのはずなのに、何故か浮かない気分になってしまうのは何故なのか、千景はまだ思い出せずにいた。
千景の休日を鑑みて、次の土曜に千景は竜之介と共に玲於が現在住むアパートの前にやってきた。千景は運転免許証は持っているものの殆ど身分証明書としてしか使っておらず、竜之介が車を出すという申し出を有り難く受ける事にした。
玲於の家は本家からはそう遠くなく、それでも主要駅からは大分離れた川沿いにあった。駅までは徒歩で三十分以上、築年数から考えれば二部屋で三万といったところだろうか。風呂とトイレは一緒なのかもしれない、プライベート空間は最低限確保できる程度の木造で壁も薄そうな二階建てのアパートだった。
必要最低限の物のみを持ち出し、残りの物は全て処分をする予定となっていた。その算段は全て竜之介が玲於の確認の下行っており、この日は玲於当人を千景の家に送るだけ。
「レオー? 来たぞー開けてー」
レトロな呼鈴を連打すると、外からでも室内に響く呼鈴の音が聞こえる。時刻はもう昼過ぎ、今日来る事は予め伝えてあるのだから出かけているという事は無いはずだった。
ピンポンピンポンと迷惑な程竜之介が呼鈴を連打すると、暫くして玄関扉が重く錆びた音を響かせて開く。
「…………りゅう兄?」
中から聞こえてきた言葉にぴくりと千景の肩が揺れる。千景が最後に玲於と会ったのは十年ほど昔の事だ。その頃の千景は成人前後で、玲於はまだ小学校中学年だった。
それから幾年、虎太郎に聞いた話では今年十九歳になるであろう玲於は――
「でっか」
目線が千景よりも高く、三和土の差は多少あったとしても自分より長身である事が充分分かる。思わず漏れた千景の言葉に、痩身の玲於は伸ばしたままぼさぼさの前髪の隙間から千景に視線を送る。
「ちか、兄……?」
「よっ、随分でかくなったもんだなぁ」
引き籠りとは誇張ではなく、数年はまともな社会生活が送れていない事は千景にも容易に推測出来た。扉を開けてすぐに分かった腐敗臭、淀んだ空気、風呂にはある程度入っているだろうが胸元まで伸びた黒髪はところどころ絡まり毛先が傷んでいる。着用しているシャツとズボンもよれよれで薄汚れている。元々体毛が薄いのか、髭は殆ど生えていない。それでも、この姿のまま河川敷で路上生活をしていたとしてもおかしくない風貌をしていた。あの頃の可愛かった玲於の面影は何処にもない。
走馬灯のように頭に過ぎるのは、可愛かった小学生の頃の玲於。
――ちか兄!
キラキラとした瞳で、駆け寄って抱き着いてくれば頭が腹に当たる程度の身長。千景にとって十歳も歳の離れた従弟は天使のような存在でもあった。
――……ちか兄ぃ……
「……ん?」
千景の頭の中に響いたのは確かに小学生の玲於の声だった。変声期が近付いて掠れた声が反響する。
――ちか兄、かわいい……
その時千景は確かに思い出したのだった。十年前の出来事を。
「うん、後は? もう全部良いのか?」
玲於の持ち物は鞄一つ分程しか無かった。その鞄ですら持ち手が擦り切れ、両手で抱え込まなければ持ち歩く事も出来ない。勿論その中に玲於の母親である涼音の位牌も含まれる。きっと涼音も余り家事が得意では無かったのだろう。幾ら仕事で忙しいとしても足の踏み場がない程の汚部屋になる事は滅多にない。少し部屋を覗き込んだだけで分かる即席麺の袋、脱ぎ捨てられた女性物の下着類――。恐らく涼音の生前から部屋はこの状態で、涼音の死後玲於一人では片付けの目処が付かない事から大家から体良く追い出されたというのが真相なのだろう。
「殆どの物は捨てるとしても、あん中から貴重品探すのも大変だったんぜ」
「入ったんかよ……」
竜之介は猛者だな、と千景は思った。自分ならばあの空間に足を踏み入れる事も憚られる。勿論必要であるならばそれに限らない。大切に可愛がってきていた弟の部屋の捜索を汚いからという理由だけで拒否するような度量が小さい男でも無かった。
「俺にも声掛けてくれたら手伝ったのに。りゅうととらでやったのか?」
「もっちろーん」
「…………こんな部屋、……ちか兄が入ったら汚れちゃうから……」
ぽつりと玲於が呟いたが生憎千景はその言葉を聞き逃した。俯き気味に両腕に鞄を抱え、ぼろぼろに汚れたサンダルを履いた玲於が千景に歩みを寄せる。自分の姿がまずいという事を理解しているのか、二メートル程の距離を置いて立ち止まる。極端に背中を丸めているのは長身故の苦労だろうか。
虎太郎から引き篭もりと教えられた時、千景の脳裏に浮かんだのはぶくぶくに丸く肥えて、髪も髭も伸びっぱなしで一日中部屋の中でTVゲームをしている様子だった。そのイメージから今の玲於の現状は大きく離れる。髪はたしかに伸びっぱなしではあるが髭はなく、肥えているどころか食べているのかと不安になるくらいの縦にひょろ長い体躯。そして玲於の家にはゲーム機そのものが無かったのだ。この数年間家の中に閉じ籠もり何を娯楽としていたのか、千景には全く想像が出来なかった。
「ちか兄……、あの、これから……お世話になります……」
「えっ? ああうん、宜しくな?」
「ちか、レオが着てる物も靴も全部捨てちゃって良いから」
玲於の衣類や日用品等新しく必要になる物の料金は全て本家が出すという話だった。勿論千景宅の家賃や光熱費も半額とまではいかなくとも何割かは負担して貰える事で話は付いている。玲於を引き取って貰えるだけでも感謝すべき事なので、人ひとりが増える分は当然の責任として竜之介が話を取り付け父親である寛壱もそれを快諾したらしい。
これから共に暮らす存在として千景はにこやかな笑みを浮かべて右手を差し出し握手を求める。
「、っ……」
「レオ?」
千景が差し出した手を取らず、玲於は鞄を両腕に強く抱きしめた儘ぶんぶんと首を左右に大きく振る。
「だめっ……俺、今汚いから……」
玲於が気にするほど見た目は汚くはない。身なりの手入れをしていないというだけで肌に垢がこびりついていたり、不快な体臭がある訳でも無かった。フケまみれという訳ではなく、単純に傷んでいるだけのようだった。風呂にだけはそれなりに入っていたのだろう。
「髪はさあ、近いうちとらに切りに行かせるからさ。まだ外出るのはしんどいだろ?」
車の電子ロックを外しながら竜之介は千景と玲於に乗車を促す。美容師の虎太郎がこの姿を見れば恐らく手を加えられずにいられないだろう。そういえば虐められて引き籠りになったと虎太郎が言っていた。引き籠もりというのは家から出ないから引き籠もりなのであり、玲於を美容院に連れて行くことは恐らく出来なかった。虎太郎が訪問するという手段もあっただろうが、この部屋の何処でそれが出来るというのか。
あの天使のように愛くるしかった玲於が外に出る事をこんなにも怯える程の何があったのか。風呂に入れた後でゆっくり聞こうと考え、手荷物もない千景は車へと向かう。
「ちか兄……」
「うん?」
千景の服の裾を玲於が遠慮しがちに小さく引く。おどおどとしていた目線がすっと千景に向けられる。
「会えて……嬉しい」
ぎこちなく笑うその顔は確かに天使だった頃の玲於の照れ笑いにも似ていた。
「なあ見てりゅう! レオが可愛い! レオが可愛い!」
「え、ちょっ、ちか兄……」
距離を取りながらも自分からは離れようとしない玲於の事が警戒心の強い大きな犬のようにも見えた。その愛くるしさは子供の頃とちっとも変わっておらず、少し縦に長く伸びただけのようだった。両腕をあげわしわしとぼさぼさの頭髪を乱す。天使は失われていなかったのだと、千景は玲於の肩を抱き車への乗車を促した。
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