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第二章
「レオ、俺の家に着いたら最初にやることは分かるな?」
「え、っと……お、お邪魔します……?」
先に玄関に上がった千景は仁王立ちで玲於を迎える。家の下まで車で二人を送ってくれた竜之介は何か困ったことがあればいつでも連絡をして来いと残して帰路に着いた。玲於の持ち物が鞄一つ分だけという事もあり、荷運び等これ以上付き合う必要が無かったからだ。千景は上がってコーヒーでも飲んでいけば良いと提案はしたが、それはまたの機会にすると振られてしまった。千景が妙に今の玲於を気に入った事も早々に立ち去る原因の一つではあった。
「うん、挨拶大事だな。偉いぞ。ただこれからは『ただいま』で良いからな」
くしゃりと頭を撫でて顔を近付けると狼狽えたように玲於の視線が泳ぐ。明朗快活だった少年時代の玲於に何があったのか、それほど小学校での虐めは玲於の心を傷付けたのか、千景には到底推し量れない問題ではあったが、玲於自身の根本は素直で純粋無垢であると千景は何故か確認していた。
「ただいま……」
母親の涼音と二人で暮らし始めてから、玲於は「ただいま」も「おかえり」も言った事も言われた事も無かった。玲於がまだ小学校に通っていた時も、夜に仕事に出かける涼音とはすれ違いが多く、起きている間に会えないといった事も多くあった。
噛み締めるように呟いた「ただいま」の言葉に自然と表情が緩む。「おかえり」と迎えてくれる人が居る。そしてそれが千景である事に抑えようにも自然と玲於の口角が上がってしまう。
「ん、お帰り。挨拶も十分大事だけど、今一番最初にやることは風呂な、風呂」
「風呂……」
「風呂はそこ突き当たったところだ。着てるモンは全部脱げ。捨てる」
千景が指差す先に白い枠に擦りガラスが嵌め込まれた扉があった。ガスが止められた事も何度かあった。その度冷たい水を浴びて体を洗った。風呂とは玲於にとって苦行だったのだ。風呂の温かさ、楽しさを感じたのは――玲於にとって十年前が最後だった。
「お前専用のは今度買ってやるから今は俺の予備を着とけ。――下着は未開封だから気にしなくてもいいぞ?」
玲於が喜びを噛み締めている間にも、千景はバスタオルや着替えの用意を整え脱衣所の籠に入れていく。玲於の現在の姿が分からない以上先に着替えを購入しておく事は不可能に近かった。予め竜之介にも聞いておけば無理では無かっただろうが、同居を打診されてから迎えに行った今日まで仕事に追われ買いに行ける日など千景には無かったのだ。
「どうした?」
風呂の湯だけは家を出る前に貯めてあり、追い焚きをするだけで入浴は可能な状態だった。衣類だけならば千景の住むこの地域では燃えるゴミの日に出してしまって構わない。シャツは捨てるものとしてもズボンくらいは洗えばまだ使えるだろうかと考えを巡らせている間、玲於は玄関で棒立ちのままだった。
唐突に千景から顔を覗き込まれ、玲於はこのにやけた顔を千景に見られたかと両手で顔を覆う。両手を離せば当然抱えていた鞄は床に落ちる。そんな事よりも向けられるその視線を指の隙間から見返しながら、玲於は勇気を振り絞った。
「……一緒に入りたい」
「風呂?」
「うん」
千景の家は単身者向けであり、風呂に成人男性が二人入るのには狭すぎる。久々に会えた反動で子供の頃に本家で一緒に風呂に入る時と間違えているのではないかと千景は疑ったが、拾ってきたばかりの犬のような目を向けられれば千景としても無下にし難い。
「一人で入れねぇの?」
少年時代の玲於の面倒を見ているようにシャツのボタンを一つずつ外してやりながら千景は首を傾げる。両手で顔を覆ったままでは袖から腕を抜きにくいので片方ずつ下ろさせて脱がせたシャツを半透明のゴミ袋の中に入れる。その左手首を玲於が掴む。
ぴくりと千景の肩が揺れる。緩くともしっかりと手首に回された玲於の指。小さな事は指を掴む事が精一杯だったのに、実に大きな手になった。既に玲於は子供ではなく立派な大人の男なのだ。
「入れる……けど、ちか兄と一緒がいいぃ……」
泣き始める様は子供だった。どんなに図体が大きくなろうとも、中身は小学生の頃と何一つ変わらない。千景自身が玲於を泣かせた覚えはほぼ無いが、泣いている玲於が千景に走り寄ってくる事は何度もあった。その理由の殆どが千景が見当たらないという理由で、その度に千景は玲於を抱き上げて泣き止むまで背中を撫で続けた。流石に今の玲於を抱き上げる事は千景には出来ない。
千景は元来、玲於の涙に弱いのだ。
「……分かった。上から下まで全部洗ってやるから先にあったまってろ。支度したら俺も入るから」
屈んでズボンの中腹を引っ張れば容易に脱がせられた。ズボンを捨てるかは検討するとして、古い下着は捨てようと――顔を上げたその先にあった白いブリーフを見て思った。
「っ、ほんと!?」
「ほんとだって」
片足ずつズボンから抜かせると下着だけはせめて自分で脱いで欲しいと願いつつ玲於の頭を小突いて脱衣所に向かわせる。
――ちかくん、玲於をお風呂に入れて貰っても良い?
千景宅の浴室には椅子が一脚しか無い。当然と言えばそうなのだが、千景が自分の着替えを用意して浴室に入った時、玲於は洗い場で大きな体を折り曲げ膝を抱えて座っていた。
全裸で寒いだろうから先に湯に浸かっていれば良かったのに、と千景は考えたが恐らく体を洗わずに湯船に浸かる事が憚られたのだろう。大きな体をかちかちと震わせる姿を見ると「やっぱり少し馬鹿かな?」と千景は思った。
追い焚き機能を止めてシャワーから出る湯の温度を確認する。洗い場のタイルを湯で濡らしていき、少しでも冷気を緩和していくとぽんっと椅子を叩いて玲於に視線を向ける。
「ほらおいで、レオ。洗ってやるから」
自分の半分ほどの大きさしか無かった玲於の体が今は多少見上げる程に大きくなっている。その背中は広く、大きく、滑らかで、目立った傷等が無い事から涼音からの虐待は無かったようだと千景はほっと安堵の息を吐く。
玲於は四歳で涼音と共に本家に逃げ込むまで実の父親から暴力を受けていた。もしかしたらその傷は全て涼音が請け負っていたのかもしれない。当時は僅かでも赤黒く変色した皮膚を痛ましくも思ったものだが、十年経ちその後が一切残されていない事から肉体に対する暴力は無かったのだろうと考えた。
シャンプーは一度だけでは泡立たず、二度目でようやく満足の行く仕上がりとなった。当然ならば千景の家にトリートメントやコンディショナーなどという女性向けの洗髪料は無い。後日虎太郎が玲於の髪を切りに来ると言っていた時に持って来るだろう。予めその旨を伝えておけば二度手間になる事もない。
子供のように下を向かせ、両手で顔を覆わせて頭頂部からシャワーの湯を掛けて泡を流していく。専門の美容師ではないのでこの位は勘弁して欲しい。シャンプーハットでもあれば別なのだろうが、そもそも一緒に風呂に入るという想定をしていなかった。
「……ねえ、ちか兄」
「なーに」
千景が満足いくまで玲於を洗い終えると、ぼさぼさだった頭髪がある程度はしっとりとまとまるようになった。まるで本当に大型犬を洗っているような感覚になりながらも、少し温めの温度に設定した浴槽に洗い終わった玲於を沈める。
「前にもこうやって一緒にお風呂入った事、あったよね?」
覚えていたのか、と自らの髪を洗う千景の手が止まる。
過去を遡れば今から丁度十年前。千景が今の玲於と同じ十九歳で玲於がまだ九歳だった時の事だ。母親と共に本家に泊まりに来ていた千景は涼音から玲於を風呂に入れて欲しいと頼まれた。
千景が泊まるという事でその日の玲於のテンションは高く、千景と一緒に風呂に入りたいと涼音に強請っていたのは玲於だったかもしれないと千景は今になって思う。
千景の家よりは広い本家の浴室で、今のようにまだ自分で髪も洗えない玲於を抑え付けて体中を泡だらけにして二人で笑い合っていた。
「オレもちか兄ちゃん洗う!」
「へぇー、やってくれるんだ? じゃあお願いしようかなあ」
思わず鼻歌が漏れる。天使のような玲於と一緒に風呂に入って裸の付き合いをするなんてまるで本当の兄弟のようだと浮かれ気分で泡立てたナイロンタオルをやる気十分の玲於に渡す。
「ちょっ、痛い痛いもっと優しくっ……」
一生懸命頑張ろうとする玲於は全身全霊を乗せて千景の背中を上下に擦った。まだ加減を知らない子供というのは本当に恐ろしいもので、ざりっと音がした瞬間に皮膚が捲れたのではないかと思う程の痛みが走る。
「……ちか兄、痛いぃ?」
「もうちょっとだけ優しくね?」
「うん!」
怒られたと思ってその大きな眼に涙をいっぱい溜めて問われれば今すぐ抱き締めて甘やかしたい衝動にも駆られるが、責任を持って最後まで任務をこなすという事をこの機会に学ばせてみようと千景はほんの少しだけ心を鬼にした。それでも今後玲於が竜之介や虎太郎の背中を流すと考えると多少腹が立つ。
「背中終わったー」
「終わった? じゃあ今度は前かなあ。俺がそっち向くね」
ある程度は広いとはいえ、小さな玲於に右往左往させてしまっては濡れたタイルで転んで頭を打つ可能性もある。一度椅子から立ち上がり玲於の方を向いて座り直す。
「でっけー……」
「誰のと比較してんの」
玲於の視線はある一点に注がれていた。十九歳という年齢から考えれば特に大きくも小さくもなく打倒なところだろう。これがもし竜之介や虎太郎と比較した上での発言ならばこれ程嬉しい事はない。
「っ、待って、レオ」
「優しく……」
止めようとした時点で既に遅く、無垢な玲於はナイロンタオルで「でかい」と称したそこを包み込優しく上下に洗い始めていた。他人の物に手を出す時は一度自分の物で試してからにして欲しい。ざらつきを石鹸の泡が包み込み、小学校三年生の弱い握力が時折敏感な箇所を強く刺激する。
「んんンっ……!」
内腿が意識とは別に強く痙攣する。玲於としては本当に優しく洗っているだけのつもりなのだろう。屹立を増すその成長に合わせて手を先端へと滑らせていく。
「……ちかにぃ、痛いの?」
ガタンッ
椅子から滑り落ちて千景は腰を強打した。支えを欲した肘がシャワーの蛇口を掠め適温のお湯が千景の体に塗れた泡を綺麗さっぱり落としていく。
――ヤバイ。
この状況を誰かに見られたら玲於相手におっ勃てた変態と思われる。母親や涼音からも白い目で見られ、御影からは一生脅迫のネタにされる。何より二度と玲於に会わせて貰えないかもしれない。それだけは避けたかった。
「ちかに、ここ、痛いの……?」
「ま、待って待ってレオ、止まって、それ触っちゃやばいや、ッつ……」
玲於を止めようと手を伸ばすが、若い肌は保湿が十分な分滑りも良く千景の手を交わし玲於は両手でそれを包み込む。
「ひっ……」
思わず声が漏れるかと思った。玲於は心から千景を心配しているのだった。明らかに先程までとは形状の違うそれがどうしてそうなったのか、玲於はまだ知らなかった。ただそれがたんこぶのように腫れてしまったものならば痛いの痛いの飛んでいけと撫でてあげれば治りが早いだろうか。
善意から特に腫れが酷い先の部分を柔らかい男児の手で撫で回す。治まりますように、痛くなりませんようにと。
「ちかに……」
「……や、だもうっ……それ、やめて……っ」
「え……?」
上気した頬、恥辱に浮かぶ涙、千景を見た時玲於の時間が止まった。言葉に表せない何かが自分の中に生まれた事が分かったのだ。今の玲於の感情や千景の状況を明確に表す言葉をこの時の玲於は持っていなかった。ただどうしようもなく千景のその顔から目が離せなくなっていた。
「ちか兄、かわいい……」
先程から動悸が治まらない。まさか玲於からその話を持ち出されると思っていなかった千景は頭を垂れてシャンプーの泡を落とす。今になって性犯罪者と罵られるのだろうか。性犯罪は親告罪だっただろうか、時効は何年だっただろうか、そんな事ばかりが頭の中を巡る。
幾ら事故だったと主張したところで、被害者の玲於から見れば一生のトラウマとなっても仕方の無い出来事だ。幼少期のそういった心の傷が一生消える事が無い事を千景は知っていた。
「あー、あったなあ。お前めちゃくちゃ力入れて背中洗うんだもん。暫くひりひりしたんだぜ?」
下手に話題を反らす事より思い切り指針をずらす事を千景は選んだ。
「……それは、ごめん……」
ぶくぶくと顔の下半分まで湯に浸かった状態で玲於は呟く。背中の痛みと性犯罪のトラウマを何とか御破算に出来ないものか、そんなちゃちな皮算用も千景の中に無かった訳ではない。
「……ちか兄、洗い終わった?」
「終わったよー」
「じゃ、こっち来て?」
「狭ぇよ」
「良いから」
簡単に腕を掴まれる。大人の男なのだと改めて実感しながらも、渋々立ち上がり男二人には狭すぎる浴槽に片足を捩じ込む。ナイロンタオルを全面に垂らしたのは玲於が不要な事を思い出さないようにと画策した苦肉の策だ。
ちらりとナイロンタオルを指先で捲り玲於はその奥を覗き込む。
「オイ、見んな」
「『でっけー』」
「ッ!」
子供時代の玲於に自分はどんな喋り方をしていただろうか。千景にはその記憶が朧気だ。このように語気を強めた言い方では今までの玲於ならば目にいっぱい涙を浮かべただろう。今の玲於はもう子供ではないのだ。自然と年相応の相手に対する口調となっていた。玲於は泣くだろうか、過去の罪を目の前に突きつけてくるだろうか。
「……今のお前から見たらそうでもないだろ」
ぢゃぽん、と勢いを付けて湯船に肩まで浸かる。跳ねた湯が玲於の顔に掛かり少しだけ眉に皺が寄った事が分かった。
普段の癖で足を伸ばせばぐにっと嫌な感触が甲に当たる。
急いで足を引こうとするがただでさえ身動きが取り辛いこの状況ではそれも難しい。二人の男の足は狭い浴槽内で複雑に絡み合う。どうやら湯の中で玲於が千景の脹脛と足先を掴んでいるようだった。
「……ねえ、ちか兄……」
「ッ、っ悪いな、痛かっただろ?」
「俺のも……でかい?」
踵を支点に千景の足がぐいっと曲げられる。脹脛から支えられていたので特に湯船の中に引き込まれる事もなく、足の甲から柔らかい感触は無くなった。――その代わりに、足の裏に硬い物が押し付けられる。千景は本能的に足の指先を動かしてはいけないものと悟った。
「で……かいんじゃね? そりゃあ十年も経てばなあ」
平静を扮えているだろうか。意識を足裏から外し、例え玲於が自らそこへ押し付け擦り付けてきていようが性犯罪者ではない自分には何の刺激にもならない。例え玲於が親指と人差し指の隙間にしきりに何かを押し付けようとしてきていても。大人の男の余裕を見せなければ、今以外のいつその機会があるのか。
「ちか兄……」
湯面が揺れる。玲於の顔が先程よりずっと近くにある。足は既に解放されていた。
幾分か大人びた面持ちではあるが、一つ一つの顔のパーツを見ればそれは確かにあの頃の玲於の面影を残している。一言で言えば美形なのだ。早く虎太郎に前髪を切って貰わないと、と海藻のように玲於の顔にへばりつく前髪を指先で取り払う。
「俺、昔からちか兄の事大好き」
性犯罪者への告発を覚悟していた千景は呆気に取られる。好きと言われた、あの天使だった玲於に。あの天使から成長したこの美形に。
玲於の指先が千景の顎を持ち上げ、ますます玲於の顔が近付く。このままではキスになるなとぼんやりと考える。ぴちゃんと水滴がタイルに落ちる音が響く。
ぐう……
ぐぎゅるるるる……
それを無残にもぶち壊したのは玲於の腹の音だった。
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