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第三章
よもやキスをするかもという状況は、玲於の盛大な腹の音で終幕を迎えた。考えてみれば玲於の家から千景の家に移動する間食事休憩というものを取っていなかった。本来ならば玲於が入浴中に食事の支度をしようと千景は考えていたが、玲於が共に入浴する事を望んだ為それも叶わなかった。
千景は十年越しに可愛い従弟、玲於からの告白を受けた。前後の状況を鑑みればその想いは親愛に収まる程度のものではないのだろう。そんな空気を素直な空腹に邪魔をされ、腹を抱えて浴室を出た千景は腹を空かせて出てくるであろう巨大な子犬の為に早い夕食を拵える事にした。
佐野千景という男は元より家事全般に明るい人物ではない。洗濯は一週間に一度まとめて行う。掃除は気になった時にやる。食事こそ腹に入れば皆同じという精神で生きてきた。しかし今後はそうも行かない、自分以外の命も預かる事になるのだ。
「れーお」
「はーい?」
どこの家庭でも味の差なんてそう変わらないカレーを選択した。玲於の味の好みが分からなかったが小学生時代から変わらないと考えるならば甘口で事足りるだろう。白米だけは風呂に入る前に仕込んでおいた。今後玲於専用の皿も買いに行かなければと思いながら湯煎で温めたレトルトを掛ける。
「ちゃんと座って食べなさい」
数分後千景の言いつけを守り湯船に肩まで浸かり百まで数字を数えてから風呂を出てきた玲於をローテーブルの前に座らせる。折り畳み式のテーブルは小さいものではあったが、二人分の食器を並べるには今の所不便が無い。その筈が玲於はべったりと千景の背後からまとわり付き、完全にホールドしていた。
「ちか兄と離れたくない」
食事外でその言葉を言われたならばその毛量のある髪を撫でくり回していた事だろう。きっと今まで玲於は食事の時は一人だったのだろう。それが誰かと一緒に食卓を囲むという事で感極まりテンションが上がるのは千景にも理解出来ない訳では無い。
食事中は食べる事に集中をする事。正座をしろとまでは求めないがその位の事ならば玲於でも知らない訳が無い。
「一人で食べられるだろ?」
「ちか兄食べさせて」
玲於が食べていないのに自分だけ食べ続けるのは申し訳ない。スプーンを皿の中に置き背後の玲於に体重を預けつつ真横にある顔に視線を送る。
「……まじで言ってんの?」
「まじで言ってる」
「しょうがねえなあ……」
ここで優先すべきは玲於に食事を摂らせること。自分が食べさせれば食べると言っているのならばその決意は何が何でも守って貰おうと隣に並べた玲於の皿を引き寄せる。
「ほら、お口開けて。あーんって」
「あー……」
鳥の餌付けはこんな感じかと考えつつも口から溢さないよう注視してスプーンを運ぶ。米が固くなっていなくて良かった、支度が完了して相応の時間が経過している事から火傷の心配は無いだろう。
大きく薄いピンク色の唇からスプーンを抜き取り咀嚼から嚥下までを見守る。あの状況下でまともな食事をしていたとは考え難い。今は無理でも少しずつ成人男性の適応量を今後玲於には摂らせていくつもりだった。
「っ――」
玲於の瞳に薄ら光が感謝する。
「レオ?」
「……ごめ、ちか兄」
「うん……?」
ようやく玲於が千景から両腕を離した。動きやすくなった千景はスプーンを置き身を返して玲於の頭部を抱き寄せる。
「あったかいご飯……久しぶりに食べたから……」
その言葉は千景の胸を強く締め付けた。拭っても零れ落ちる涙を何度も手の甲で拭くぐちゃぐちゃになったその顔を千景は「可愛い」と思った。
もう何年間母親と一緒に食事をして居なかったのだろう。時折様子を見に行っていたであろう竜之介と虎太郎とは一緒に食事をする事は無かったのだろうか。誰でも当然に得る事が出来る食事という温かみを忘れてしまえる程の時を一人で過ごしてきたのか。
玲於はまだ幾らでもやり直しのきく年齢だった。何歳になっても本人が願えばやり直す事は容易い。過去を忘れるのではなくそれらを糧にして新たな自分を作り出す事は出来る。千景にも経験があるからだった。
「これからは俺と一緒にあったかいご飯食べような……もう、無理しなくて良いから」
「うん……っうん、……!」
肩口に玲於の頭部を抱き寄せればじんわりと水気が広がっていく。あの後玲於から離れてしまった事を千景は後悔した。だからこそ千景は欠けてしまった十年を埋めてあげたい。もっと楽しい事も、面白い事も人生にはあるのだと、玲於に千景が与えてあげる事が出来るのならば僥倖だった。
スプーンを再び手に取り一口分を掬う。それを口に運べば今度は玲於がその手を重ね自ら口に運ぶ。自ら食事をするのは生きる本能だ。玲於にはちゃんと生きる意思がある。おかしな形ではあるが保護者として千景がしてあげられる事はやるつもりだった。
一口、二口と自ら口に運び始める玲於。それでも何故か玲於はスプーンごと千景の手を離さなかった。自分で食べられるのならばそろそろ手を離して欲しいと考えつつも結局皿が空になるまで千景は玲於の食事を見守り続けた。
食べるものが無くなれば玲於はスプーンから手を離し、同時に千景の手も解放される。「いただきます」や「ごちそうさま」はもう少し落ち着いてから教えるとして、口の端にこびり付いた黄色いルウを指先で拭い千景はそれを自分の舌で舐め取る。やはり甘口はカレーという実感が無い。
「ちかにぃ……」
落ち着いた筈の涙が再び玲於の双眸に浮かぶ。ルウを拭った右手首を捕まれ玲於の顔がスローモーションのようにゆっくりと近付いてくる。思わず千景は先程の風呂での状況を思い出す。
先程は豪快な玲於の腹の音に邪魔をされたが、今は腹の音という邪魔者は存在しない状況だ。邪魔がなければあの時どうなっていたのか――
ぷるぷるでぷにぷにだったあの頃とは違う骨ばった大人の男。唇が重なれば一体どうなるのか。
ガッツンっ
「いっ、づぁ……!」
唇の奥にある互いの歯同士がぶつかり鈍い音を立てる。口腔内に広がる鈍痛。千景は口元を抑えて床に転げ回りつつ痛みに耐える。玲於も同じだった。それでも千景の内側から沸々と込み上がってくるのは、愉悦感。
千景は完全に理解したのだった。玲於の中身は小学生男子そのものであったのだと。携帯電話もテレビもインターネットも無い世界で十年間、玲於は成長する方法を身に付ける事が出来なかった。玲於にとってキスとは唇を重ね合わせる事。勢いが余り過ぎてこういった事故が起こる事すらも想定が出来ない、つまり紛うことなく童貞なのである。
「レオっ、お前……ほんと、可愛い」
攣る程に痛む腹部を抑え、笑い過ぎで湧き上がった涙を指先で拭いつつ千景はやっとこさ起き上がり、しゅんと眉を落とした玲於の肩を叩く。
玲於自身も何かを間違っていた事には気付いたらしく、倒れた千景の様子をおどおどと伺っていたので、千景が思いの外怒っていなかった事に表情がぱあっと明るくなった。
「俺の事……好き?」
ちゅっ、と啄むように玲於は千景に口付ける。加減を覚えて今度は歯に激突しなかった。覚えが早いなと千景は感心しつつ、くしゃりと玲於の頭を撫でてからその手を滑らせて頬に触れる。
「好きだよ。そのままのレオで居てな」
千景の家には使っていない部屋が一つあった。元々物置として使っているその部屋を、玲於を引き取ると決まったその日の夜から少しずつ片付け始め、引き取ったこの日には完全に玲於の部屋として使用できるようにしていた。新しい布団一式は領収書を提示する事で竜之介によって精算され、今後もその形式で玲於の部屋としての環境を整えていく予定だった。
千景の部屋と玲於の部屋は襖一枚を隔てている。今まで十年間引き籠もり生活を送っていた玲於に配慮し、寝ている時くらいは変わらず一人で落ち着けるようにと熟考した結果だった。しかしその千景の判断は間違っていた。
「ちか兄……起きてる?」
時計は深夜を回った頃、背を向けていた部屋を隔てる襖がすうっと静かな音を立てて開けられる。気を使って僅かに落とした声で玲於は様子を伺いつつ、膝をついて千景の眠るベッドへと近寄る。
誤算だったと千景は悔やんだ。風呂も食事もべったりと離れたがらなかった玲於の事だ、眠る時くらいは一人が良いだろうと考えた上での事だったが、玲於が大人しく一人で眠る筈がなかったのだ。
「寝てるよ」
睡眠導入剤を服用してからまだそう時間も経っていない。今日は初めての事が有り過ぎて疲れている事だろう。明日からまた気合を入れ直す為にも寝る時間を阻害されたくなかった。それでも千景はここで玲於が駄々を捏ねれば重い体を引きずってでも相手をしてしまうのだろうと自身の玲於に対する感情を理解していた。
「寝てるかあ……」
予想外に千景の言葉を信じた玲於のようだったが、ギシリ、とベッドが軋む。背中を向けて寝ていたのは失敗だったかもしれないと思った。しかし玲於とを隔てる襖側を向いて眠る事は玲於の事をずっと考え続けているようで気恥ずかしかったのだ。
背後に大きな犬の気配がある。ぴったりと隙間なく密着され気まずさを覚えた。玲於の中身は小学生男子のままのはずだ。よもや此処でおかしな事をしでかす筈もない。
もし寝所で玲於が何かを求めてきた場合、自分はそれに応えきる事が出来るのだろうか。
背後から玲於の寝息が聞こえてきたら自分も眠ろう。幸い今夜は導入剤の効果が薄い。張り詰めた神経は一錠では効果を表さなかったのだろう。
「んっ、ちか、にぃ……」
首筋に伝わる吐息にびくりと肩が震える。玲於の手が腰から脇を伝い寝間着のスウェットの裾から肌を滑る。たどたどしい指先が探るように肌をなぞり――
もしこの時玲於がその手を下腹部へと滑らせる事があったのならば何かに気付いただろう。小学生の知識までしか無い玲於はただそこにある千景の肌に触れる事で満足してしまったのだ。確認するようにぺたぺたと肌を撫でる。
「ちかにぃ、……すき……」
首筋に当たる鼻息のこそばゆさに千景は肩を震わせた。
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