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第四章
『レオと上手くいってる?』
千景が玲於を引き取った翌週、仕事の休憩時間に竜之介から電話連絡が入る。昼の休憩時間が大体同じ頃というのは有り難い事だった。
「りゅう兄……アンタ知ってたんだろ」
『え、何をー?』
決して得意ではない料理を三食分用意し、自分の居ない間玲於には温め直して食べさせている。出来る事ならば夕食は共に食べたいものだったが、システムエンジニアという生業上毎日同じ時間に帰宅出来るとは限らないのだ。電子レンジで再加熱をする方法だけは玲於一人でも出来るように叩き込んだ。必要最低限の家電にも使い方のメモを付箋で貼った。中学以上の漢字を読めない玲於の為に平仮名と片仮名を駆使した。
「とぼけんな、レオの事だよ」
『だからレオの何よ』
「っ……」
十年間の空白に関しては自分よりも竜之介や虎太郎の方が圧倒的に詳しい。本家で玲於と共に暮らしていた時期もある。母親の代わりに玲於の世話をしていた事もあっただろう。玲於の千景に対する想いを他の誰より竜之介が知らない訳が無かったのだ。
『あー……もしかしてもう食われた?』
「食われてねぇわっ!!」
千景の予想は見事に当たった。竜之介は知っていながら千景に玲於を引き取る事を打診してきたのだった。竜之介の言うとおり他に親戚の中で玲於を引き取れる家庭が無い事も事実だった。これがローティーンならば話も別だろう。成人も間近の長期引き籠もりとは案外地雷案件でもあるのだ。
『なんだ、レオも意外に奥手だったか』
「え、何?」
『あ、いや。で、実際のとこレオに何されたんだよ』
電話の向こうで竜之介が笑いを堪えている姿が容易に目に浮かぶ。明らかに竜之介は可能性を分かっていてそれを敢えて千景には伝えていなかった。
理解があるというのは玲於にとっても救いだったのかも知れない。誰もが竜之介のように寛容な訳ではない。幼い頃から玲於を保護するべき存在がそれらに否定的な意見を持つ人間だったならば、玲於はもっと自分を抑えてしまう子になっていたかもしれない。
「何され……あぁ、初日にキスされて毎晩布団に入ってくる位だけど」
『はい?』
あれから玲於は毎晩千景のベッドで一緒に寝ている。深夜徐ろに肌を弄ってくる事はあってもそれ以上の事は何も無かった。千景もいい加減に慣れた。巨大な犬と一緒に寝ていると考えれば気が楽だった。
「それがさ、聞いてよりゅう」
『聞いてるって、どんと来い』
千景にとっての竜之介は兄よりも兄らしかった。地元を離れていた数年間は交流をしていなかったが、久々に再会してもその関係性は何一つ変わって居なかった。何でも話せるしっかり者のお兄ちゃん、それは竜之介の元からの性格上のものなのだろう。
「アイツ、舌使うの知らないからめちゃくちゃ歯ァ当たってくんの」
竜之介は飲んでいたブラックの缶コーヒーを吹き出した。
『小学校レベルで止まってるからね。言っちゃえば小卒よ?』
口元や周辺に散ったコーヒーをティッシュで拭きながら竜之介は言う。玲於が母親と共に本家を出た後の事を竜之介は詳しい訳ではない。玲於が引き籠もった以降の交流は実際減っていた。
玲於は小学校六年生の時に虐めを理由にし登校をやめた。中学にも籍はあったようだが一度も登校する事は無かった。虐めの原因に関しては玲於らしいものだった。大きくなったら十歳年上の従兄と結婚したいと作文でクラス中に発表したのだ。心が発達していない子供たちはそう簡単にゲイを受け入れない。異質な存在として玲於は小学校という社会から弾き出されたのだ。
それが蓋を開けてみればどうだろうか。
「それがもうほんっとーに可愛くってさあ」
『……もしもし、ちかちゃん?』
「布団入ってきてもぺたぺた触るだけで首に当たる鼻息が荒いのが可愛くって」
『ち、千景くん? 千景さん? ちっかちゃーん?』
「総じてレオが可愛いよ」
『そりゃ何より』
十年間ぶれずに千景を想い続けた玲於の本懐は見事に遂げられていたのだった。千景が玲於を実の弟の様に可愛がっていたのは誰から見ても一目瞭然だった。以前の千景は今のように相手の迷惑も考えず、自分の好きを全面に押し出すような人間だっただろうか。元々暗い人間ではなかったが、実兄に抑え付けられていた千景は不自由な少年時代を過ごしていた。
今のように千景が楽しそうに話すのを聞くのは初めてかもしれない。千景のそれを引き出したのは他でもない玲於の存在そのものだろう。
玲於だけではなく千景の幸せをも竜之介が願っていた事に千景は気付いているだろうか。
『俺はさ、ちかが同居を断ったらレオには諦めさせるつもりだったんだぜ?』
「何を」
『えっ、だからさあ、……レオは昔っからちかの事が大好きだったんだって』
幾ら千景が玲於を大好きだったとしてもそれは過去の話。大きな出来事が千景の人生を狂わせた。――地方に逃げ出さなければならない程に。
その事件を弟の虎太郎は知らない。親戚中は騒然としたものだった。既に成人を迎えていた竜之介だけに真実は伝えられた。
今の千景があの頃と同じ想いを玲於に持ち続けているとは限らなかった。今の千景が玲於を邪険に思うのならば玲於には諦めさせる事も親心だと竜之介は心を決めていた。
「うん、それはレオから聞いたけど」
『え、聞いたの?』
状況は竜之介が想像しているより早く展開していた。もう少し慎重に物事を運ぶだろうと考えていた竜之介の思惑は見事に外れていたのだった。千景は玲於からの好意を知った上で同居を受け入れ続けている。
『上手くやってるようなら何よりだよ。金銭的なサポートなら出来るから困ったらいつでも言ってな』
「あーうん、ありがとう」
時刻は間もなく昼休憩の終了を告げる。次に二人に会えるのはどの位後の事となるか。千景同様竜之介も安易に仕事を抜けられる立場に無かった。本家の跡継として葬儀や同居の手続きまでは手を回したものの頻繁に様子を伺える程の余暇は無い。何より既婚者である竜之介は従兄弟同様自らの家庭も大事にしたい男だった。子供の頃とは違う、皆お互いに大切なものは違うのだ。
『ちか、』
「うん?」
『油断してるとまじで食われるからな』
「は……?」
兄としての忠告だった。千景はまだ玲於の想いを軽くみているきらいがある。
「ちかにぃ……」
「ん、」
玲於は毎日頻繁にキスを強請る。唇が触れ合うだけのバードキス。朝仕事に出る前、夜帰宅した直後、食事を作っている最中、起きた直後、寝る直前、はたまたトイレで用を足した直後。
改めて玲於の身長は千景より高い。引き籠もりを続けていた為身体測定などは行っていないだろうが、柱で身長を測ってみたところ百八十センチは超えていた。千景もそこまで身長が低い訳ではないが百八十センチには至らない。竜之介や虎太郎と並べば千景の方が身長は高く、玲於は従兄弟男性の中で最年少で最高身長を誇っている事になる。
千景は自分より身長の高い男を苦手としている。それはかつて自分より実兄の身長が高かったからだ。歳を重ねる事により実兄の身長を越す事は出来た千景だったが、今でも身長の高い相手はその時の苦い過去を呼び起こす。体格の大きな相手には何をやっても敵わないという事が無意識下に刷り込まれているのだろう。
その点自分より身長の高い玲於の事を千景は苦手に思った事は無い。引き籠もり生活が長く碌な運動もしていない筈の玲於の身長が伸びていた事は疑問でしかないが、恐らく父親がそういった遺伝子を持っていたのだろう。玲於の母親涼音も千景の母親牧子よりすらりと身長が高かった覚えがある。
玲於は身長が高いといってもひょろ長く、その点で「敵わない」という警戒心を千景に抱かせないのだ。
「ふふっ……」
「どうした?」
虎太郎も本業の美容師が忙しく、玲於の髪を切りに来るという約束が未だ果たされないでいた。毎日髪を洗わせた事でぼさぼさだった髪はある程度の清潔感を保てるようになり、長い前髪はファンシーショップで買った女子向けのヘアピンで留めさせている。小学生の女の子が付けているような装飾具であっても玲於ならばそれが似合ってしまうのが不思議だった。
そのおかげで照れ臭そうに笑う玲於の表情が前よりもはっきりと分かるようになった。
「しあわせ……」
「そりゃあ良かった」
玲於の表情が一気に紅潮する。両手で顔を包み込むその姿は忙しい毎日を送る千景のブドウ糖のようなものであって、この笑顔を見られるのならば過重労働も苦では無かった。以前勤めていたブラック企業に比べれば今の職場は天国のようなものだが、自宅に天使がいるという日々は人の心こんなにも変えるものかと千景は実感していた。
玲於本人からではなく竜之介からも玲於の好意を告げられた事が上機嫌に拍車をかけている。昔は誰かを大事にする事など考えられなかった。自分が大事と思う相手は実兄が全て破壊してきた。
「な、な何っ?」
両腕を回し首に絡ませ僅かに屈んだ玲於の髪に口吻を落とす。その意味は玲於には決して分からない。
「んー? 可愛いなあレオは」
誤魔化すようにぐしゃぐしゃと頭髪を乱しすぐに解放する。風呂上がりの玲於から同じシャンプーの香りがする。コスパ重視で独特の匂いは含まれていないはずなのに玲於から漂うそれは僅かに色気を感じる。
千景は自分のベッドに腰を下ろし、咥えた煙草に火を付ける。毎晩一緒に寝てはいるが男二人でシングルのベッドは些か狭い気もした。玲於がべったりと背後に張り付いているから問題は無いとしてもおいそれと寝返りも打てない。
「可愛い? 俺の事好き?」
「好きだよ」
千景が煙草を吸う様子を床に座った玲於が見上げる。今までの家に無かったテレビも置いてあるというのに玲於はテレビを見ている時間よりも千景を見ている時間の方が好きらしい。竜之介の金で携帯電話を買い与えてはいるが、連絡をする友達が居る訳でもなくメモリには千景と竜之介、虎太郎の三件しか入っていない。
吸い終えた煙草を灰皿へと捨てるとそれを待っていたかのように玲於はベッドに上がる。一度煙草を吸っている千景にキスをして危ないからと嗜められた事があったからだ。
「ちか兄」
いつもの様に背を向ける千景の肩を玲於が掴む。まだ構って欲しいという意思表示だろうか。向かい合って眠る事は玲於の鼻息で笑ってしまう事を隠せないので眠る時は決して玲於を見ない事にしていた。
肩を掴んだ手を玲於が引き千景はベッドに仰向けになる。
「なに?」
千景を逃さないように顔を挟んで両腕を落とす。電灯は玲於の体に隠れて暗い。少しは先の事を望むようになったのかと子供の成長を見守る親心で千景は玲於の頬に手を伸ばす。
「エッチしたい」
「ぶっは」
千景はまた一つ大きな問題を見逃していた。玲於の語彙も小学生で止まっていたのだった。腹を抱えて背を向ける。玲於は自分の言葉の何がおかしいのか理解出来ないようだったが千景はそれだけで満足をしてしまった。
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