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第七章
「本当に申し訳ない」
千景は虎太郎の前で平身低頭、土下座をしていた。虎太郎が玲於に掛けた電話が繋がったままであった事を知ったのは程なくの事だった。それを知った直後の千景は一気に酔いも覚めあわや貧血で意識を失うかと思う程の目眩を覚えたのだった。
「……ちかも大変だったねえ」
「目線反らすな、俺が気まずい」
玲於の部屋としていたその一室で虎太郎は玲於の長過ぎる髪を切っていた。背中まで伸びていた長い髪は耳が隠れる程度までさっぱりと整えられ、毎日のシャンプーのお陰か今はキューティクルも戻ってきていた。
虎太郎としても親戚の嵌め声をリアルタイムに聞かされる日が来るなど夢にも思わず、時間通りに訪れた虎太郎と千景は非常に気不味い思いをした。
「録音とかしてないから安心して」
「泣くよ?」
積極的に聞きたいと思うものでもないが、二人が合意の上で事に及んでいるのは虎太郎は理解出来た。虎太郎の同棲相手であるキャバ嬢はここ数日仕事で午前様になる事も多く昨晩もそうだった。同棲相手が早く家に帰ってきていたらもっと早く電話を切っていた事だろう。
「ちか兄の泣き顔えろいよ?」
嬉しそうに玲於が足をばたつかせて笑う。引き籠った始めの頃はそれでも母親が定期的に髪を切っていた事もあったが、年齢で言えば中学生の半ばから母親が玲於の髪を切る事は無くなった。丁度その頃だった、母親の飲酒量が増えたのは。
「おいこらレオ」
「兄ちゃんにも報告するからそこんとこ詳しく」
「やめろオイ、報告すんな」
「でもちか――」
何かを言おうとして虎太郎は言い淀んだ。それは恐らく今この場で言う必要の無い事だった、特に玲於が居るこの場所では。
「はい大体オッケー。今日ちゃんと風呂で洗えな? 細かいの出るだろうから」
「わーい、ありがとうとら兄」
口調は幼くとも長さを整えた玲於は年相応の爽やかな青年といった印象を受けた。中身は勿論小学生男子のままではあるが、口を開かなければ相応にモテるだろう。長過ぎた前髪もヘアピンが不要な程度に整えられた。
細かい髪の毛を床に敷いたビニルシートに落とせば、ケープをそっと外す。きっと千景と暮らし始めてから食生活に気を使っているのだろう、髪の健康が以前とは段違いで良くなっている。
「おー、さっぱりしたな」
ぱたぱたと尻尾を振るように千景に歩み寄る玲於。目の下に付いた細かい毛を指先で払うとよしよしと頭を撫でる。
「可愛い?」
「ん、可愛い」
虎太郎も居るので頬に軽くキスをする。
「バカップルかよ」
道具を片付けた後、散髪料としてコーヒーをご馳走になる。料理は少し出来るとは言っても菓子は守備範囲外なのでそれは既製品で賄う事にした。
玲於はというと、虎太郎が居てもお構いなしの様子で千景の膝枕に甘えている。つい数ヶ月前に再会したばかりの二人がこんなにも早くくっつく事は虎太郎からしても予想外の出来事だった。
「それゴムいつ買って来たの?」
昨日の今日なのに早々に部屋の隅に置かれた新品未開封の避妊具に虎太郎は視線を送る。もし以前からあったとしたら昨日のような状況を予め想定していた可能性がある。昨日の状況から考えると避妊具は使っていなかったようだし――とそこまで考えて虎太郎は思考を止めた。これ以上昨日の事を思い出したくなかったのだ。
「今朝だな、中出しすると腹壊すんだよ」
「経験者は語る?」
少しだけピリついた空気が走る。これは虎太郎から千景に対する復讐だ。カマを掛けてみただけだったが強ち間違いという訳でも無いらしい。
「ぶち犯すぞ」
千景の言葉に怒気は含まれていなかった。やろうと思えば千景は本当にそれをやってしまえるだろう。しかし千景はやる気もないし、虎太郎も千景にやられるつもりはない。
「やーだ、ちか兄は俺のっ!」
「可愛いなあレオは」
膝からがばっと起き上がり玲於が不服の表情を浮かべる。軽口であっても千景が他の人物と性的交渉を持つ事を想像してしまったのだろうか。宥めるように千景が玲於の頬に口付けを落とすと玲於は千景の首に腕を回してじゃれ付く。
「何この空間本当に怖い……」
美味しい筈のコーヒーが途端に砂糖だらけの泥水になった気がする。二人がそういった関係に落ち着いた事自体は問題無いし、事情を知っている一人として隠される必要も無い。そう考えても目の前で繰り広げられる光景だけは遠慮したかった。
「慣れろ、幾分かマシになるぞ」
「……ちかがそれ言うんだ?」
千景の言葉には含みがあった。玲於だけがそれに気付いていない。
夕陽が落ち掛ける時刻になり虎太郎は千景の家を後にする事にした。
「じゃーちくちくしたり気になるところがあったら言ってよ、また来るからさ」
「んーありがとうなー」
「とら兄またねー」
大義名分は玲於の散髪だったが、その他に二人の暮らし振りを確認するという裏の仕事もあった。裏といっても千景はその意味に気付いていた。表面上は仲良くしていたとしても漂う空気というのものは隠しようがない。今日は相当芳香剤スプレーで誤魔化されていたが、そういう意味でいうのならば問題は無いとも言えるのだろう。二人の一挙手一投足を取っても不審に感じる点は一つも無かった。
ただ今の状況だけで判断をする事は難しい。二人は一線を越えてしまったばかりなのだから。今は蜜月に近いものがあったとしても何かのバランスでそれが崩れる可能性は否定出来ない。その辺りを確認するようにと仕事で手を離せない兄の竜之介からは釘を刺されていた。
美容師の為手に臭いが残る煙草は吸わないが、恋人の影響で最近電子タバコは吸うようになった。電源を入れて加熱を待つ間出たばかりの扉に背を預ける。
「ね、ちか兄……」
「れおっ……んぐ、……はぁ、まだ、とらが……」
「やだ、もう待てない……」
虎太郎が家を出てすぐに一枚隔てた扉の向こうから聞こえてきた声。千景の言う通り足跡が立ち去るまではもう少し待って欲しいものだった。お邪魔虫はこちらの方だと虎太郎は加熱が終わった電子タバコのスティック部を咥えて音を立てずにゆっくりと歩き始めた。
どこまで報告するべきか、それを悩みつつも虎太郎は兄の竜之介に電話を掛けた。数回のコールで竜之介は通話に応じた。受話までの時間が短かったという事は偶々暇だったか、この着信を待っていたかのどちらかだった。
『ああとら、ちかとレオどうだった』
「率直な感想として『まじやべえ』」
加熱の終わった電子タバコをポケットの中へと仕舞い込む。二人がくっついた事は昨日の時点で竜之介に報告済みだった。玲於が千景を食った事も、際どいところではあったがそれが合意の上であった事も。
『……何それ、詳しく』
竜之介の声が少し低く感じた。真剣に虎太郎の話を聞こうとしている為だろう。
「セックス知ったばっかの猿の体力に千景がどこまで着いてけんのかってのを俺は気にしてる」
性行為を覚えたての男子というのは面倒なものだ。暫くの間は寝ても覚めてもその事しか考えられない。特に長年懸想していた相手と一つ屋根の下に居るこの状況は玲於に冷静になるという時間を与えない可能性がある。
玲於が学生であったり、仕事に出ていて他の社会生活がある場合は別だろうが、今玲於の世界には千景しか居ない。千景だけが居れば良いと言っても過言ではない状態だ。
働いたことの無い玲於には働くことに対しての必要性が理解出来ない。現に昨晩千景の帰宅が遅いだけであれ程までに取り乱した玲於だ。一線を越えた後それが落ち着くのか酷くなるのかは出た所勝負でしか無かった。
『やっちまったか』
「やっちまったねえ。ちかも昔っからレオの事大好きだったから押し切られてるような気がするんだよねー」
千景は玲於が望めばそれですら受け入れてしまうかもしれない。千景は幼い頃から相手に関する感覚が捻じ曲がっているのだ。そうさせたのは他でも無い御影。
虎太郎と千景が同じ次男同士だといっても、虎太郎は竜之介と比較的良好な兄弟関係を紡いでいた。しかし千景にとっての御影は虎太郎の持つその感覚とは大きく異なる。兄であっても兄では無い存在。御影から兄としての愛情を貰ったことのない千景は玲於に弟としての愛情を注いだ。その加減を学ぶ事が出来なかった千景は愛しい弟から求められれば求められるだけ与えてしまうだろう。
過剰過ぎる愛を玲於から求められた千景がいつか壊れてしまうのではないかと懸念していたのは竜之介だった。竜之介は虎太郎の知らない何かを知っている。虎太郎が千景に関して知っている事と言えば、九年前御影が起こした事件が切っ掛けとなり千景は地方へと逃げ、御影は佐野家から勘当されたという事だった。
『俺もまたそれとなくちかから状況聞くようにはするから』
「ン、頼んだ――」
千景と玲於の二人にとって今こそが一番注意して様子を見なければならない時期なのであった。
虎太郎の危惧はそう遠くない内に現実のものとなってしまう。
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