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第十四章

「……人の糞恥ずかしい過去をよくもべらべらと」  音も無く開かれたリビングの扉から千景が顔を覗かせた。  竜之介から玲於が本家別邸に来ていると聞いた千景は荒れた部屋もそのままに電車を乗り継ぎ本家へと向かった。  到着して呼鈴を鳴らせば竜之介の妻が出て、竜之介と玲於はリビングに居るからと通してくれた。 「よお着いたのか」 「ちかに、いっ……」  千景の登場を竜之介は片手を上げて迎えるが、びくりと玲於は背筋を震わせ背後に居るであろう千景の顔を直視出来ないままで居た。咄嗟に動いた身体は竜之介の座る椅子の後ろへと向かい、隠しきれないその大きな体躯で隠れているつもりになりながら出来る限り身体を小さく見せるように両足を抱え込む。 「随分腫れてるけど手当てしてけば? ……レオも中々えぐい事するな」  玲於の居る場所が分かれば千景にこれ以上思考を停止している暇は無かった。汚れた服を着替え、財布を持って飛び出した。玲於に殴られたその場所は赤紫色の変色を始めており腫れ上がった頬が目を下から圧迫していた。到着するまでに良く職務質問をかけられなかったものだと感心するほどだった。 「別にいいよ、女じゃあるまいし」 「千景のそういう男前な所好きだわ」  それに比べて、と竜之介は椅子の背後に隠れる玲於を振り返って視線を送る。 「|レオ《お前》はそういう所女々しいな?」  あくまで隠れているつもりだった玲於は竜之介に指摘され、首根っこを掴まれるとじたばたと暴れる。 「りゅう、良いよそのままで。煙草吸っていい?」 「良いけど」  竜之介の許可を得ると千景はベッドに腰を下ろす。休む間も無く帰宅から此処まで玲於を追ってきた千景は漸く一息つくように咥えた煙草にライターで火を付ける。その手が微かに震えていた事を竜之介は見逃さなかった。  正直なところ千景は悩んでいた。玲於が心配なあまり何も考えずに来てしまったが、玲於自身が今後も自分と暮らしたいと望むかは見えていなかった。  玲於は竜之介の背後からそっと千景を覗く。左頬にくっきりと残された蛮行の証が玲於がしでかした事をまざまざと見せつけていた。 「ちか、兄……」  椅子の背凭れに手を掛けて更に覗き込もうとすると、業を煮やした竜之介が椅子を半回転させるとその反動で玲於の身体は竜之介の背後から千景の前へと投げ出される。  恐る恐る顔を上げると煙草の灰を灰皿に落としながら千景が玲於に視線を向けていた。千景の綺麗な顔が赤紫に変色している。唇も少し切れたのか、口の端が既に瘡蓋になりかけている。自らが付けた蛮行の証が目に入るとじんわりと目に涙が浮かぶ。  思わず後退りする玲於だったがそれを許さぬ竜之介によって尻を蹴り上げられる。 「わわっ……」  不安定な姿勢で蹴り上げられた玲於は前方に向かい体勢を崩しかけた。つんのめりそうになると慌てて両手を前へと伸ばす。 「レオっ!」  玲於を支える為咄嗟に飛び出した千景の腕の中へ飛び込む。あまりに一瞬の出来事で、為す術なく千景の腕の中へ収まってしまった玲於は顔を上げられずに戸惑っていた。  もどかしい二人の姿を見ながらさっさと仲直りをしろと考えていた竜之介は玲於の背中へ回された千景の左手を注視し、玲於に触れられず固く拳を握ったのを見て深い溜息を吐いた。椅子から立ち上がると玲於の背後へ屈み込み首を傾ける。 「……レオ、もう俺ん家の子になる?」  竜之介の一言を聞くと弾かれたように千景の視線が向けられる。どこか不安げに眉を落としたその表情を確認した竜之介は笑みを浮かべて千景の頭をぽんと叩く。きっと不安なのはどちらも同じで、玲於にそれを見せまいとする分千景の方がずっと重い物を腹に抱え続けている。  ――頑張れ。  竜之介の唇が千景へエールを送るように動く。竜之介にとっては千景も玲於も可愛い弟である事に変わりは無く、二人の苦悩を知っているからこそ幸せになって欲しいと願っていた。その幸せがお互いに対して存在しているのならば尚更、相手の気持ちを慮るばかりが全てではないと気付いて欲しかった。  もしかしたら、このまま竜之介の家で世話になる方が玲於には幸せなのかもしれない、千景にはその可能性が捨てきれなかった。しかし千景自身の感情としては――手を、離したくは無かった。 「――っ、レオ……」 「……殴って、ごめんなさい……」  大きな身体を震わせながら、小さな声で玲於が呟いた。謝っても許されないかも知れない、そんな事は玲於にも分かっていた。ごめんなさい、と玲於は再び小さな声で呟く。手を上げた事を一番後悔しているのは玲於自身だった。  千景の留まる手が再び開かれ、玲於の背中へとんと置かれると、強く、その服を握り締めた。 「良いんだ……もう、良いんだよレオ」  上手く隠しているつもりでも千景の微かな心の機微が伝わったのか、玲於はすぐに身体を起こし千景の顔を確認した。しかし向けられた玲於の顔も両目からぼろぼろと涙が零れ落ちていた。 「レオ、りゅうん家の子になりたいか……?」  もし自分がこれからも一緒に暮らしたいと伝えたならば、玲於は喜んでそれを受け入れるだろう。玲於の目元に浮かぶ涙を指先で拭いながら千景は本心を押し殺して尋ねる。 「俺、はっ……」  玲於が真っ直ぐな視線を向ける。拭っても次から次へと流れ出る涙は脱水症状にならないかと不安になる程だったが、何かを必死に訴えようとする姿に胸を締め付けられるような感覚を抱きつつ、玲於の言葉を待った。 「俺はっ、……これからもずっと、ちか兄と一緒にいたいっ……」 「……うん、分かった。一緒に帰ろうレオ」  一緒に居たい。そう考えるのは千景も一緒だった。玲於の頭部を片腕で抱き寄せ頬を寄せる。 「ちか兄、怒ってない……?」  そのまま帰宅する前にやはり幽霊のように腫れた顔を何とかしろと竜之介は千景の顔に応急処置を施す事にした。脱脂綿で傷口を消毒する千景の顔を不安そうに覗き込みながらも玲於は千景の腕から離れようとはしなかった。 「怒ってるように見える?」 「分かんない……」  千景は優しいから、怒っていないように見えても実は怒っているのかも知れない。いつも自分に優しい千景しか知らない玲於はどういう顔が千景の怒っている顔なのか分からなかった。 「これは怒ってない時の顔だから信じて大丈夫だぞ」  今は赤紫色に腫れてはいるが、次第に痕も残らず消えるだろうと千景の頬に冷却用の湿布を貼りながら竜之介は言う。 「……なんで分かんのりゅう兄」  自分の知らない千景の顔を知っている竜之介に対する嫉妬の炎がちらついた。怒った顔も見せて貰えていない自分は本当に恋人だったと言えるのだろうか。 「……お前も一回ちかのマジギレを見れば分かる。悪魔ゴリラの七倍やべーから」 「悪魔ゴリラ?」 「御影のことだよ」  千景が口を挟む。子供の頃千景、竜之介、虎太郎、また他の従妹の間で流行っていた御影のあだ名だった。御影が女子に手を上げる事は無かったが千景に近付くと何かしらの嫌味は言われていたらしい。最初にそのあだ名で呼び始めたのは女子たちの方だった。 「りゅう、とらの件は……?」  美容師の命とも言える指を折られ全治三ヶ月だと電話で聞いた。今竜之介が此処に居るという事は命に別状が無いと考えても問題は無さそうだが、自らの愚兄が引き起こした事に関して全く無関係であるとも言えない。 「時間はかかるが指は元通りになるってさ。ちかが気にする事じゃないよ」 「だけどっ、……やっぱり見舞いには行ってやりたいし」 「落ち着いたら行ってやりな。とらも喜ぶよ」  慰めるように千景の肩に手を置いた竜之介はその瞬間の千景の顔を見てぎょっとする。  竜之介の表情があまりにも引き攣っていたので、玲於は千景の顔を覗き込もうとするが竜之介の手が咄嗟に玲於の目元を覆い隠してそれを阻止する。 「えっ、なにりゅう兄!?」 「……見るな、レオ。今の千景の顔は見ない方が良い」 「エロいの!?」 「エロくはない」  エロい程度だったならどれだけマシだっただろうか。確認をした事はないが恐らく千景は玲於に今の表情を見せたくない筈だと竜之介は考えた。竜之介でさえ千景が本気でキレた時の顔を見た事が何回あっただろうか。この表情となった時の千景は言葉通り御影の数倍とんでもない事をしでかす。 「……ちか、やり過ぎんなよ」  竜之介の願いが千景にどの程度届いたかは分からなかった。

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