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第十三章

 家を飛び出したが、行く宛が無い。外は既に薄暗く自分がどの道から来たのかも分からない。  途端に玲於は不安になってきた。勢いだけで出て来てしまったがもう既に千景に会いたくて仕方が無い。殴ったことも、大嫌いと言った事も謝るのでもう一度千景に会いたい。 「レオ」  車の急ブレーキの音と呼ばれる名前。ハッとして振り返るとそこには運転席から窓を開けて玲於を見る竜之介の姿があった。 「……りゅう、にぃ……」  知っている顔を見て心底ほっとした。安心したと同時に再び涙が零れ落ちる。  竜之介は運転席から降りて玲於の前に回り込む。 「千景は家か?」  こくり、と玲於は頷く。自分は大変な事をした。千景に酷い言葉を残して一人で逃げ出してしまった。 「御影はもう居ない?」  再びこくり、と玲於は頷く。  御影が既に居らず千景が一人で家に居るのならば喫緊での心配は無い。何が起こったのかは玲於を見ただけで想像する事が出来た。恐らくは御影がそうなるように種を植え付けた。千景の初めての相手が御影であるという事を玲於は聞かされたのだろう。千景が絶対に隠し通したかった黒い過去。その事を知っているのは自分と大人以外では誰も居なかった。御影は勘当されたが、本家の中ではトップシークレットとして取り扱われた。裁判所から御影に対して接近禁止令も出ていた。その上で千景の両親は千景を神戸へと逃した――御影の手が届かないように。  今の玲於は千景の元には戻れないのだろう。一度本家別邸である竜之介の家で引き取る為竜之介は助手席の扉を開けた。 「分かった。じゃあ乗りな。俺ん家行こ」 「ぢが兄に嫌われだらどうじようりゅう兄ぃぃぃい」  本家別邸、今は竜之介が妻子と共に暮らすそこに玲於は連れて来られた。竜之介は玲於に関する世話の一切を巻取り、本家の込み入った事情故と簡単に説明をしたのみで妻を下がらせ子供もリビングに近寄らせないようにした。  風呂に入れられ裂傷の手当てをされ、竜之介に服を借りた玲於は冷静になるにつれ自らがしでかした蛮行に対する後悔と、それに伴い千景から見捨てられるリスクに恐れ慄いていた。 「先に大嫌いって言ったレオが悪いだろ」 「ぢが兄に嫌われだあああぁぁ」  泣き喚く玲於を宥め賺し大凡の事態を把握する事は出来た。御影が現れ玲於に引き取った事が同情である事と過去に二人に肉体関係があった事を仄めかした。玲於は帰宅した千景を問い詰めるが、千景にとっても御影との事は消したい過去であり思考が停止した。思わず玲於は千景に手を上げてしまい、千景は嘔吐。家を飛び出した玲於を丁度到着した竜之介が回収したという流れとなる。  千景の事も心配ではあったが、玲於を回収して別邸に連れてきた旨をメールで連絡すると返事はすぐに返ってきたので無事ではあるようだった。 「ちかも言ってたんじゃないのか? 『御影の言葉なんて信じるな』って」 「……うん、言っでだ」  本家の頭痛の種、御影。勘当された後は半グレと繋がりがある等良くない話ばかりを聞く。温かいココアを啜る玲於の感情は少しずつ落ち着いてきた。  冷静になって話をすれば玲於の誤解は解けるだろう。仕事机の椅子を軋ませ竜之介も温かいカップに手を伸ばしその中のコーヒーに口を付ける。 「……ちか兄の処女膜ぶち破ったのみか兄だって」 「ぶっふぉッ」  竜之介はコーヒーを吹き出した。足にも零してしまい火傷をしそうな熱さに慌てふためく。御影ならその表現を使う事も納得だが玲於に対してはもう少し言葉のチョイスを考えて欲しかったと竜之介は頭を抱える。 「ちか兄とみか兄は……付き合ってた、の?」  玲於はそういう行為そのものが付き合っている間柄でないとしないと考えているらしい。それで玲於が抱く不安に対する合点がいった。 「あーナイナイ。そこに関してはお前が心配するような事は一切ないから」 「だけどお……」  恐らく千景は玲於にまだ多くの事を隠している。話したくない事など誰にでもあると思うが、まだ小学生から少し成長した程度の玲於にはそれらが気になって仕方が無いのだろう。 「ちか兄が自分から言わない事を俺からはレオには言えないよ」  それはフェアではない。竜之介が話すとしても、それは千景から玲於に話して欲しいと許可がある場合に限る。 「でもでもっ……」  ぎしり、と椅子に体重を掛け、竜之介は自らの左目の横を指で指し示す。 「……レオ。ちかのこの辺に小さな傷があるんだけど見た事ある?」  今となっては余程注目しなければ気付く事も出来ない薄い傷だった。普段は前髪や眼鏡に隠れて見る事は出来ない箇所に千景は小さな火傷の痕を残していた。 「うん。何回か舐めたり吸ったりした」 「要らん情報までありがとう。あの傷はさ、レオがほんっとーに小さかった時に千景が御影からレオを守った時についた傷なんだよ」 「ちか兄が、俺を……守った?」  玲於はきょとんと目を丸くする。 「来たばっかの頃だからレオは四歳だったかな、覚えてなくても仕方がないけれど」  玲於の母親涼音が暴力を奮う夫から逃げ出し、本家に身を寄せたのは玲於が四歳の時だった。その時竜之介は十六歳の高校生で、千景は中学生だった。 「御影もさ、レオと同じ位ちかの事が大好きだったんだよ。レオとは少し……いや大分形が違うけれどね」  その時の御影は既に高校を卒業していたから十九歳だった。定職にも就かずフリーターをしていると千景の親が話しているのを聞いた事があった。どちらが先だったかは正確に覚えてはいないが御影が暴力事件を起こしたのも丁度その頃だった。相手は千景の中学の先輩だった男子生徒。断片的な記憶を繋ぎ合わせるとその先輩が千景に性的な悪戯を働こうとしたという事だった。  大人たちの話を立ち聞きすると千景は過去にもそのような事があったらしい。小学生の頃の千景は悪戯目的の変質者に襲われ、その時も御影が相手を叩きのめしたという事だったが、御影の千景に対する偏執的な愛情はその頃から始まっていたのだろう。 「御影はちかが自分以外の誰かを大切に思う事が嫌だったんだ。少しでもちかと楽しそうに話してたら、俺でも裏で御影に殴られた」  弟を守るつもりの御影の思いはいつか拗じ曲がり、千景に近付く者全てを排除するようになっていた。 「御影はちかが嫌がっても自分に従わせる為に殴ったり、柱に縛り付けたり、閉じ込めたりもしてたんだ。レオはちかが嫌がる事はしないだろ?」  口輪を咬まされた千景が納屋から見付かったという事もあった。今でも覚えているがあの時竜之介は御影の狂気に心からゾッとした。 「えっちの時に『嫌』とか『駄目』ってちか兄が言うのは?」 「それは問題ない部類だな」 「あ、でもこないだお仕置きの時に俺ちか兄の事縛ったらちか兄泣いて謝っ」 「話し続けて良いか?」  中々仕事や家を開けられない分、なるべく虎太郎に様子を窺って欲しいと頼んではいたが、予想出来ないスピードで二人の関係性が進んでいる事に竜之介は頭を抱えた。 「それでもちかはレオの事が大好きだったんだよ。まあ御影以外、俺らみーんなレオの事好きだったけどね。……だけどちかがレオの事を大好きって思うのが、御影は面白くなかったんだよ」  年離れた従弟を誰もが可愛がった。時に末っ子の千景と虎太郎にとって玲於は弟のような存在だっただろう。歳の近い二人が協力して玲於の「お兄ちゃん」をやっていた姿は思い返しても微笑ましいものだった。  しかし御影はそれを面白いとは思わない。千景の意識が玲於に向けられる事が御影の嫉妬心に火を付けたのだ。 「泣いてるレオを殴って、更に泣き出すレオに火の付いたままの煙草を投げたんだ。俺もとらもそこに居たけど間に合わなかった。ギリギリでちかがレオの事庇ったんだよ。少しずれてたら目に入って失明してたかもな。それでもちかはレオが怪我しなかった事の方が嬉しかったんだ」  一同は騒然とした。玲於は千景の腕の中で泣き叫び、御影は虎太郎が呼びに行った父親に殴られながらもへらへらと笑っていた。底知れぬ不気味なものだった。千景の母親はおろおろとして救急車が来るまで千景の顔を冷やしていたが、その時の千景は涙一つ溢さず玲於をあやしていた。 「出会った頃からブラコン拗らせてんだから、同情なんかで一緒に暮らす訳ないんだよなあ」

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