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第十二章

 仕事の後始末は滞りなく片付き、順調に予定通りの時間に帰宅が出来そうだった。滋養強壮剤が効いたのか仕事が終わる事には熱もすっかり引き、この調子ならば帰宅時に玲於にバレる事はないだろうと安堵していた。千景が喫煙所で一服していると竜之介からの着信が画面に出た。 『いきなりすまない、急ぎの用があって』  虎太郎から余計な事でも聞いたのだろうか。苦虫を噛み潰したように嫌な気持ちになりながら、煙を細く吐き出した。 「説教なら聞かないよ」 『説教って? まあ良いや。あのな、落ち着いて聞いて欲しい』  察するに今朝虎太郎と話した件では無いらしい。千景は安心して手にしていた缶コーヒーの栓を開ける。 『ちかの家が御影にバレた』  千景の手から缶コーヒーが落ちた。床に流れ出る黒い染みはゆっくりと千景の足元まで侵食していく。地元に戻って来た二年前、虎太郎に連絡をしなかったのは親戚に戻ってきている事を知らせない為だった。勘当されているとはいえいつどんな状況でバレるかは分からない。千景が戻ってきた事は両親にしか知らせていなかった。その両親も千景の家は知らない。用事があれば葬儀の時のように携帯電話にかければ千景の方から実家なり必要な場所へと赴く。尾行でもされない限り千景の家がバレるはずがなかったのだ。 「なん、な、どうして、御影が……」  煙草は自然とスタンド灰皿の中に落ち、千景は震える手を抑えるように両手で携帯電話を握る。 『とらをボコって聞き出したらしい。俺も今から向かうけどお前も――』 「とら、が、何? とらは……無事、なの……?」  御影が虎太郎から住所を聞き出した。状況と時間から考えて虎太郎と別れたあの後すぐの事なのだろう。つまり公園での会話をずっと御影に聞かれていたという事なのだ。  呼び起こされる千景の中の恐怖。御影が何年もかけて執拗に千景へと刷り込んだトラウマ。 『――指が何本か折られてて、全治三ヶ月……だってさ』  自分と関わった人物が裏で御影に殴られていた事を知っていた。だからこそ親しくならないようにと距離をとっていた事もある。虎太郎との会話を目撃されていて御影の矛先が虎太郎へと向けられたのだとしたら―― 「……俺の、所為……だ」  自分と関わったから、また誰かを傷付けてしまった。 『違うからな!? おい、ちょっとコラ! 聞いてるか!?』  電話口からの竜之介の声がやけに遠いものに感じた。 「レオ!」  竜之介の連絡から一目散に帰宅した千景の目に飛び込んで来たのは、開け放たれた玄関扉、ガムで塞がれたドアホンのカメラ、荒れたリビングと寝室、そして―― 「レオ!!」  寝室で血を流し横たわっている玲於の姿だった。駆け寄ってすぐさま玲於を抱き上げる。玲於はその頬を両方とも赤く腫らし、どれだけの時間一人で泣き続けていたのか目は真っ赤に充血していた。千景が触れた瞬間、玲於の体は大きくびくついたが、視界に入った存在が千景であると分かると再び双眸は涙で満ちた。 「レオごめんっ……御影が来たんだよな、ごめん。一人にして本当にごめん……」  一目見ただけで分かる暴行の痕。弱々しく伸ばされる手を両手で握る、千景も震えていた。 「ちか、にぃ」 「痛い? 救急車呼ぶか?」  ぽつりと呟いた言葉が耳に届く。赤く腫れた頬が痛々しく、口の端には乾いた血が滲んでいる。見てすぐに分かる、御影に何度も殴られたであろう事は。一人で玲於を家に残すべきではなかった。しかし御影の来訪は千景にでさえ予測できないものだった。  普段ならば嬉しそうに綻ぶ表情が今日は変わらない。瞳に光が一切無いのだ。子供の頃、今のように玲於が何度か御影から暴行を受けていた時期があった。あの時も玲於は泣いて縋ってきたが、抱き締めればすぐに泣き止んだ。それなのに今の玲於は目の前に千景がいても感情が動かない。 「……レ、オ?」  御影によって玲於の感情が壊されてしまったのかもしれない。嘗て自分が御影にそうされたように。あの男は体への暴力と言葉の暴力で相手を捻じ伏せ支配してきた。  玲於はゆっくりと肘を着いて身を起こし、千景はそれを固唾を呑んで見守った。玲於が次に告げる言葉の予想が付かなかった。 「俺と暮らしてるの、同情、なの?」  ばきり、と千景の心の中で大きな皹が入った。誰が玲於に吹き込んだかなど考えなくても分かる。  御影は千景が一番嫌がり、玲於が一番ダメージを受ける言葉を選んで叩き付けたのだ。 「……御影に何言われた?」  玲於を引き取ったのは同情だと、御影が吹聴したのは想像に難くない。言われたのはそれだけなのか、確かにその一言だけでも玲於にとっては大きなダメージを受けることだろう。しかし御影の性格上玲於に投げ付けた言葉がそれだけである訳が無いのだ。 「……俺の事……愛して無い、の……?」  御影がどんな嘘を玲於に吹き込んだとしても、時間をかけて一つ一つ千景が訂正していくつもりだった。悪魔の戯言に耳を傾ける必要は無い。 「御影に言われた事なんか全部忘れろ。何も気にしなくて良いから。俺はレオの事愛」 「御影御影御影ってえ!!」  千景の手を、玲於が振り払った。  みしり、千景の心に圧が掛かる。玲於に振り払われた手を見て呆けている暇は無かった。 「っ、ごめんレオ、もうアイツの名前出さないから、大丈夫だからっ」  払われるのが怖くとも、玲於の手を掴まずにはいられない。掴んだこの手から、本当の気持ちが玲於に伝わったらどれ程良いだろうか。  何故玲於が愛を疑ってしまったのか、御影の悪意にどんな風に塗り潰されてしまったのか。心の皹が波及していく痛みに千景は耐えた。 「俺の初めては全部ちか兄なのに! 何でちか兄の初めては俺じゃないの!?」  昨晩も玲於は同じ不安を口にしていた。御影はきっとその小さな不安に指を押し込み遠慮なく傷口を広げていった。  耐えられなくとも、耐えなければならない。今自分がこの手を離したら玲於は二度と戻っては来られないだろう。 「レオ、や、だから、それは……」 「ちか兄と最初にえっちしたの、自分だってみか兄言ってた!!」  蜘蛛の巣のように広がる皹の隙間を縫って、どろりと赤い血が流れ出す。 「…………勘弁しろよ」  低い声で千景の心の奥から本音が漏れた。  終わった、全てが終わった。他の誰でもない玲於にだけは絶対に知られたくなかった。御影が現れたと聞いた時点で薄々予感はあった、目的の為なら手段を選ばない御影がその事を玲於に伝えない訳が無いのだ。 「何で! みか兄とえっちしたの!? 何で!? みか兄にもえろい顔見せたの!?」  玲於の言葉が何重にも厚いフィルター越しに聞こえている感覚だった。聞こえているはずなのに何も理解が出来ない。どう答えたら良いのかも分からない。  辛くて哀しいはずなのに、涙一つ溢れなかった。  千景の唇に、玲於の柔らかい唇が重なる。焼けるように熱い玲於の舌が千景の咥内を蹂躙していく。  そういえば、朝ほど体調が悪くなさそうだ、風邪が治ったようで良かった。床が煙草の灰で汚れている。徐にそんな事を考えていると玲於がシャツのボタンを外し胸元を弄り始めていた。 「……えっちしよ、ちか兄」 「ごめん今は無理」 「何で!?」  玲於の考えている事が分からない。何故今このタイミングで性行為を求めるのか。体だけの繋がりが玲於にとっての愛なのか。自分はこんなにも汚れているのに、あの悪魔に汚された日から―― 「これから竜之介が来るって言ってたし」  電話口で竜之介がこれから来るというような事を言っていた気がする。図らずも自分の方が先に到着したが、竜之介があれから車を飛ばしてやって来るとするならばもう間も無くだろう。 「俺の事、好きじゃないの……?」 「好きだよ」  そうだ、自分は玲於の事が好きなのだと反芻する事で心の中に再設定する。 「なんで……俺の事見てくんないの……?」  玲於を見なければ、玲於が見て欲しいと願っている。視線を向けていつものように笑顔を見せてやらないと玲於が不安になってしまう。  ――頭が重い、上げられない。心と体がまるでばらばらの生き物のようだった。 「ちか兄なんか大ッ嫌い!!」  苛立ちを募らせた玲於の手が千景の頬を打つ。壁に背中を打ちずるずると滑り落ちても千景は視線を上げない。  殴られた頬の痛みは千景に消したい黒い過去を嫌でも思い起こさせる。言う事をきかないからと殴られた、そして犯された、御影に。 「ッ、う……ぉ、うぇ……」  これまでに食べた全ての物が千景の口から排出される。室内に広がる異臭。  床についた千景の左手、白い手首に細い傷が何本も見えた。  今まで何回も目にしていたもののはずなのに、それを初めて見たかのように玲於はひゅっと喉を鳴らした。  言う事を聞かないといって父親はいつも母親を殴った。自分の思い通りにならないからと言って大切な人を殴った。今、自分が大嫌いだった父親と同じ事をしてしまった事実に玲於は気付いた。  母親の手首にも赤い傷が何本も残っていた。 「……ち、かに……ぁ、あ……俺……」  玲於は自らの両手を見つめ、一歩また一歩と後退りをする。自分の手が大切な人を傷付けた。愛して欲しいのに、愛していると言って欲しかっただけなのに。 「あぁぁあああああああああッ!!」  玲於は裸足のまま家を飛び出した。  今まで一度も家から外に出た事がない玲於が家を飛び出した。知っているところなど何処にも無い、車に轢かれるかもしれない、行かせるべきでは無かった。千景は痛む体を圧して身を起こす。 「……はあっ、は……レオっ……!」  追い掛けなければ、そう分かっているのに体が動かない。追い掛けて、それからどうすれば良いのか。 「レオに……大嫌いって言われた……」

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