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第十一章

 千景が用意した昼食のうどんを温め直し啜る。過保護なまでに厚着をさせられ午前中いっぱい汗を流し続けた玲於は、食事が終わった頃にはあれだけ重かった頭が少しすっきりした気がした。食器を割る可能性があるからと今日はシンクに置くだけにしておけと千景に固く言われていた。  解熱シートを額に貼り、汗ばんだ服を脱いで新しいものに着替える。それだけでもさっぱりした感じがして、玲於はベッドに腰を下ろしてスポーツドリンクのボトルを開ける。  ピンポーン  呼鈴が鳴った。普段平日の日中に誰かが来る事は無い。虎太郎も千景が家に居ない時間に訪れる事は無いのだ。誰かが来たらすぐに扉を開けないでまずモニターで確認をすること、と千景の忠告通り玲於はカメラの応答ボタンを押す。 「はーい?」  が、しかしモニターには何も移っていない。真っ暗なのだ。まだ日は高い、窓の外もカーテン越しではあるが太陽の光を感じる。故障でもしているのか、と首を傾げた所モニターから声が聞こえる。 「ゆーびんでえーす」  やはり映像が壊れているだけだったと聞こえてきた声に安心して玲於は玄関の扉を開ける。 「はぁー……、い?」 「久しぶりじゃねぇかクソガキ」  そこに居たのは郵便局員では無かった。玲於の知らない男がそこには居た。荒れた髪、乱れた着衣、くちゃくちゃとガムを噛む不快な音。玲於はその男を知らないと思いながら同時に恐怖を抱いた。 「え、だ、誰……?」 「忘れたとか調子こいてんじゃねぇぞボケが!!」 「ぶっ……」  ただ訳の分からないその存在が玲於は怖かった。次の瞬間玲於の体は反転し気付いた時には床の上に倒れていた。頬が熱くじんじんと痛む。何故、何が起こった。その傷みと訳の分からない恐怖は玲於の中の重い記憶の蓋を開けた。  過去にもこうして何度か殴られた事がある。痛くて泣き叫べば更に煩いと言って殴られる。それは父親だけだったのか、それとも―― 「……み、み……みか、にぃ……」 「あんだ、覚えてんじゃねぇか。手間かけさせんじゃねぇよ」  にたりと笑う気味の悪い邪悪な顔。  遠い昔――本家に来ていると聞いた千景を探し回っていた時突然殴られた。その時もこの男は今と同じような顔で玲於を見て笑っていた。顔が焼けるように痛くて、何故殴られたのか、意味も分からず泣き叫んで逃げ回った。その声を聞きつけた千景が何処からともなく現れ、玲於を抱き上げて頬にキスをした。「痛いの痛いの飛んでいけ」と。不思議と傷みが和らいだような気がした玲於だった。  その男が時を経て今自分の目の前に居る。御影は土足で家に上がり、主不在の家の中を歩き回る。千景に連絡を入れようにも携帯電話はリビングではなく寝室にあった。  寝室に置かれたゴミ箱の中のティッシュペーパーや使用済み避妊具を見付けて鼻で笑う。 「ちかにぃちかにぃって引っ付いてたクソガキが今は千景のセフレでもやってンのかあ?」 「セフレ…………って、何?」 「だぁはっ! セフレも知んねぇのかよ! 中身は昔と変わっちゃいねえな、でかいのは図体だけかよ」  這いつくばるように四肢を駆使し玲於も御影を追って寝室に入る。携帯電話さえ手に入れれば助けを求める事が出来る。しかし誰に連絡をすれば――玲於の脳裏にすぐに浮かんだのは千景だったがすぐに「千景に知らせてはいけない」という警鐘が鳴った。そうなれば竜之介か虎太郎か、千景が休日出勤をしているだけで、土曜ならば竜之介に連絡が付くだろうか。虎太郎から美容師は土日が定休日ではないと聞いたことがあった。 「いいぜ、教えてやるよ」  ゴミ箱を蹴り飛ばし、御影は玲於の目前で座り込む。ローテーブルに置いてあった灰皿を手繰り寄せ、ポケットの中から取り出した煙草を咥えて火を付ける。  肺まで深く循環させた煙を玲於の顔面目かけて吹き掛ける。小康状態になったばかりの玲於はそれに噎せ返り、御影を避けるように身を縮めるが髪を掴まれ顔を寄せられる。 「セフレってのはなあ……セックスするだけのダチ、てめえはセックス以外に価値がねぇ穀潰しだっつってんだよ」 「違う!」  目の前に御影の煙草が迫っている。灰皿を手繰り寄せたものの朽ちた灰が床に落ちてジッと音を立てる。怯えた目で反論を口にする玲於の態度に御影は片眉を上げる。 「あァ?」 「俺とちか兄は友達じゃあない。ちか兄は俺の事愛してるって言ってくれるし、俺もちか兄の事愛してる。だから友達じゃない、俺とちか兄は恋人」  千景との関係を「友達」で片付けられた事が玲於には我慢ならなかった。今までの玲於ならば殴られるのが分かっている御影に口答えをしよう等考えなかっただろう。  自分と千景は間違いなく恋人関係である。玲於は決してそれを譲りたくはなかった。 「ほざいてんじゃねぇぞこンガキャア!!」 「ッ!!」  御影の怒りが爆発し、玲於は部屋の隅に蹴り飛ばされる。食べたばかりのうどんが胃の奥から込み上がってくる感覚があった。転がる玲於に暇を与えず腹を踏み付ける。声すらも上げられず玲於は口から胃液を吐く。 「なーにが『愛してるって言ってくれた』だ」  荒々しく煙草を灰皿へと押し付けて御影は玲於の胸倉を掴んで起き上がらせる。 「いいか、よーっく覚えとけ」  醜悪な笑顔だった。相手を傷付ける事のみを快楽とした外道のそれは今の玲於に一番効く言葉の暴力を知っていた。 「アイツは俺とのセックスの時だって『愛してる』なんて言葉簡単にほざくんだよ」  痛み以上に頭が真っ白になって御影が何を言っているのか理解出来なかった。  酷く侮辱的な言葉を投げ掛けられた気がした。それは玲於と千景の間にある信頼関係を木っ端微塵に叩き潰す言葉のように聞こえた。 「え、……何……いま、……」  嘘だと、千景の言葉で否定して欲しかった。今この場に千景は居ない。  狼は大きな子犬に勝ち誇った笑みを浮かべる。それは勝者の笑みだった。吐き気がする程傲慢な王者の顔。 「千景から聞いてねェのか? アイツの処女膜ぶち破ったのは、オレだよ」  片手で作った円の中にもう片方の指を入れる仕草をした。それがどんな意味を表す事であるのか玲於にはまだ理解が出来なかったが、愛する千景の初めての相手が御影だという事は理解が出来た。 「嘘だ!!」  叫ぶ玲於の頬を御影が打つ。乾いた音が響き痛みから涙が浮かび上がる。 「嘘じゃねぇよ、千景に聞いてみりゃいいだろ」 「う、うそ、だ……そんな事、絶対……」  理解は出来てもそれを認めようとしない玲於の姿を見て完全に矜持を破壊した事を理解した。玲於に最後に会ったのがいつだったか、御影は明確には覚えていない。それでも小さな体でうろちょろと千景にまとわり付く玲於の存在が御影は昔から嫌いだった。千景も玲於に対し好意を抱いていた事が余計に御影を苛立たせた。 「勘違いしてるガキによぉーっく釘刺しておかねえとな」  千景に近付いたらどんな目に遭うのか、心の奥深くまで二度と忘れないように刷り込む。魂が半分抜けかけているかのような玲於と視線を合わせ、恐怖と共に植え付ける。 「覚えとけやガキ、千景がテメーを引き取ったのは愛してるからとかじゃねえ。テメエが! あんまりにも! 不幸だから!!」 「やだやだやめて、違う! 違う違う違う!!」  強くなっていく語気に玲於はもう聞きたくないと両耳を塞ぐ。御影はそれを許すまいと覆った手の上から玲於の耳へと言葉を捩じ込む。 「同情して! 引き取ってやっただけだ。愛されてるとか自惚れてんじゃねえ。千景はテメエの事なんざ愛してねーんだよ」 「嘘だ! ちか兄は俺の事愛してる!!」  言葉に出さなければ自分の中の自信が御影の言葉で飛び散ってしまいそうだった。千景が愛していないなんて信じたくなかった。同情で自分を引き取ったなど信じたくなかった。御影の言葉は玲於の心を揺さぶる。愛しているの言葉も同情しての事だったのだろうか。  不安で千景に想いを叩き付けた事は何度もあった。それでも千景は玲於を抱きしめ大丈夫だと耳元で囁いた。それも全てただの同情だったのか。  千景に愛されているという自信が、揺らぐ―― 「アイツは生まれた時から俺だけのオモチャなんだよ」 「い、やだ、やだ……ちか兄は、俺の……」  もし千景が本当は自分の事を愛していないとしても、自分が千景を愛し続ける事は許して貰えないだろうか。十年経ってようやく手に入れた。同じ気持ちだと分かって嬉しかった。真実を知った玲於を千景は追い出すだろうか。 「千景の初めてのセンズリも! ア◯ルバージンも! 口マ◯コも! ぜえんぶ俺なんだよ」 「う、そだ……そんなの……」  愛していたい、千景の事を。愛する事を許して欲しい。  だけど出来る事ならば、千景に愛して欲しい。

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