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第十章
冷え切った浴室に長時間居続けた玲於は翌朝高熱を出した。
出来れば病院に連れていきたい所ではあったが、理由も明確であったので常備薬の解熱剤を飲ませる事にした。千景はというと、昨日の後始末が残っていた為休日ではあったが午前中だけ職場に顔を出す事になっていた。
「じゃあレオ、行って来るけど辛くなったらすぐに電話しろよ?」
「ぢが兄……」
今の玲於を数時間でも一人で残す事は不安だった。この日ばかりは誰に引き止められても用事を済ませたらすぐに帰って来よう、頬を撫でる掌からも玲於の熱が伝わってくる。
朝食の後に解熱剤を飲ませたばかりなので、大人しくしていればこのまま小康状態となるだろう。病院に連れ出せない千景に出来る事は今はない。
「もし俺に繋がらなくてもりゅう兄かとら兄が来てくれるからな」
探さなくて済むように枕元に玲於の携帯電話を置く。ぜえぜえと苦しそうな呼吸を繰り返しながら玲於は千景の手を弱々しく握り込む。
――勘付かれたかと千景は一瞬身構えるが、玲於は千景の手を両手で握り込み熱によって双眸に涙を溜めながら懇願するように視線を向ける。
「ぢが兄が良いぃ……」
「ごめんな、ほんとは俺も居てあげたい」
ここまで言われてしまえば今からでも連絡をして休日出勤を取り止めたい。昨日の後始末として今日はどうしても千景が出社する必要があり、最大限の交渉をして午前中までという約束を取り付けた。今日の交渉次第では月曜は振替休日にする事が出来るかもしれない。
今日の半分を犠牲にして丸一日の休みを取るべきか、千景は思い悩んだ。
「ぢが兄、俺……良い子にしてるから……」
悩む千景の眉間の皺を見て玲於にも何か思うところがあったのか、するりと手を離し辛そうな呼吸を繰り返しつつも顔には笑みを取り繕った。
「帰ってきたら沢山キスするからな、ちゃんとご飯食べてから薬飲むんだぞ」
「いってらっしゃい……」
幸せなキスだった。触れ合う唇から千景が玲於の事を想っているのが伝わる気がした。
家を出た直後、近くのコンビニで栄養剤と滋養強壮剤を買ってから電車に乗る。
玲於に漏れず、千景も長時間冷えた浴室にいた事で風邪をひいていた。重症度で言えば千景の方が高かった。しかしそれを玲於に悟られる訳にはいかなかった。
何重に着込んでいても背筋を這い上がる悪寒。やはり無理をせず自分も家で休めば良かっただろうか。自分も風邪を引いたといえば玲於はきっと自分の行いを悔いるだろう。何度玲於の所為ではないと繰り返したとしても玲於は自分自身を責められずにはいられなくなる。
電車を降りて職場までの坂道を下る。途中の公園のゴミ箱に栄養剤の瓶を捨てれば聞き覚えのある声に呼び止められる。
「ちか、今ちょっと良い?」
その声に、千景は嫌な予感があった。顎に掛けていたマスクを鼻筋に沿わせ上げて振り返る。
「無理、時間無い」
「じゃあ歩きながら話すわ」
スキニーのポケットに両手を押し込んだまま立つ虎太郎を一瞥して千景は職場への道を再び歩き始める。虎太郎は千景に並んで歩き始め、千景が滋養強壮剤の蓋を開けると片眉を顰める。
心なし頭が重いようにも感じる。小さな瓶を傾けて一気に喉の奥に流し込む。午前中だけならばこれで何とかやり過ごせるだろう。
「とら、お前仕事は?」
「俺だってこれからだよ……なあ、昨日お前ん家行ったんだけど」
虎太郎の言葉に千景は足を止める。
「……へえ? チャイム鳴らしてくれたら良かったのに」
「鳴らせるかよっ! ……その、聞こえてた……からさ」
その件について虎太郎が話があるというのならば自ずと要件は決まっていた。聞こえていたのだろう虎太郎は、昨晩の室内での声が。
昨晩千景が帰宅した時点で時刻は深夜の一時を過ぎていた。夜の訪問としては常識の範囲外だ。だからこそ虎太郎も始めは呼鈴を押すか悩んだのだろう。そして間もなく室内から聞こえてきた二人の会話に、虎太郎は結局呼鈴を押せないままでいた。
もしあの時虎太郎が呼鈴を押していたならば止める事が出来たのだろうか。――玲於を。
「……分かった。お前の性癖が盗み聴きだっていうのはりゅう兄ちゃんには言わないどいてやる」
「性癖じゃねぇよ!?」
「その報告なら確かに受け取った。じゃ、俺急ぐから」
ひらりと手を振り千景は再び歩き始める。
「あ、ちょ、待って、待てって千景!」
虎太郎は慌てて千景の腕を掴んでその場に引き留める。元から千景は予定の時刻より早く家を出ていた。玲於がぐずる事を考慮しての計算だったが、数分程度ならば仕事の開始に影響は無い。元々今日に限っては正式な勤務ではないので出勤時間を気に留める必要はないものだった。
「……要件を端的に五文字以内で」
「無理、短過ぎる」
「五文字超えた」
「うるせえ」
佐野千景と梅田虎太郎――二歳差の従兄弟同士。共に数歳年上の兄がおり、産まれた時から次男として育てられる。
兄の竜之介よりも近い存在で、しかし兄ではない存在。小さい頃の千景は虎太郎よりも泣き虫で、母親の牧子にべったりとくっついていた。今思えば千景にとっては母の側が一番安全な場所だったのだろう。
「千景、お前無理してねえ?」
「無理って?」
やがて母親が意識的に千景から離れるようになった頃、千景はいつも怯えていた。決して普段は近くに居ないのに千景を束縛する兄御影の存在に。
小学生の虎太郎が千景を外に連れ出して遊びに行けば、何処からともなく御影が現れ千景だけを連れ帰る。その後必ず千景は泣き腫らした顔で現れ暫くの間虎太郎との交流を避けるのだった。それが続いた後、千景は笑いも泣きもしなくなっていた。虎太郎と遊ぶ時にも一定の距離を保つようになり感情というものが一切見られないようになっていた。
竜之介は何か知っているようだったが虎太郎には何も教えてくれなかった。その時の千景と同じような印象が、今の千景から見受けられたのだ。
虎太郎に掴まれた腕を千景は視線を落とす。
「……してねえよ。無理とか、俺は……もう、無理はしないって決めてんだから」
「俺らはお前のその言葉信じるしかねえんだぞ?」
もし今千景が助けを求めるのならば、千景も玲於も傷付く事のない、出来る限りの対応をするつもりだった。それでも千景は虎太郎に助けを求めない。まるで全ての責任が自分にあるかのように。
「……もう良いか?」
従兄弟として友達以上の対等な関係を築けていたつもりの虎太郎。自分が千景と玲於の為に何も出来ない事が悔しくて仕方が無かった。
「なァちか。神戸で何があった?」
「は……」
「どう考えたって昔のお前はソッチじゃなかっただろ」
虎太郎だけが気付いた――千景の変化。
「ソッチって……」
「俺がバイだから」
弱々しくあっても虎太郎の知る千景はノーマルだった――はずだった。少なくとも学校を卒業するまでの千景は。涼音の葬儀で数年振りに再会した時、虎太郎は既に千景が今までは違う事に気付いていた。同類の者だけが感じ取る事の出来る、男に抱かれ慣れている気配。
「……え? へー……ああ、そうなんだあ?」
「棒読み加減がイラつくから後でちょっと殴らせろ……」
千景は虎太郎がバイである事を知らなかったのか目を丸くした。それを今千景に告白したという事は、千景が今まで抱えてきたであろう悩みを、もしそれを今まで誰にも打ち明けられる事が出来なかったとしたならば、その一端でも理解する事が可能であると虎太郎は自ら打ち明けたのだった。
「向こうで男の恋人でも居た?」
「答えなきゃいけない?」
神戸での六年間で千景に何があったのか。また何があって二年前神戸からこちらに戻ってきたのか。根掘り葉掘り聞き出すつもりはないが、もし玲於との関係に障りがあるのならば相談に乗れればと思った。解決に助力は出来ずとも話す事で千景がもし何かから解放されるのであれば。
「別に。随分変わったから何かあったんだろうなって。向こう行く前のお前は」
「そん時の話はすんなッ!!」
千景の大声を初めて聞いた気がする。公園の鳩が一斉に飛び去った。
地雷と分かっていて踏み抜いたのは虎太郎だった。まだ千景は完全に過去を乗り越えられていなかったのだ。葬儀の後の飲みでも千景は御影の話をする事を嫌がった。
「…………わりぃ」
掴んでいた腕を放す。崩れた上着の形を整えながら落ち込んだ様子の虎太郎を見て千景は呼吸を落とす。
「……確かに体が辛い時もある。そこは否定しない」
玲於の若さにこれからも付き合い続けられるという自信は無かった。玲於を傷付けないように挿入行為以外の方法も模索してきていた。
繋がるだけが愛ではないと、いつか玲於に伝われば良いと思うが今それを伝えれば玲於は混乱する事だろう。
「ちか」
「だけどそれ以上に俺はやっぱりレオが可愛いんだよ」
取り乱す姿も、泣きじゃくる姿も、また昨晩のように怒りに任せた行動も。十年間会わなかった玲於の一挙手一投足が千景にとっては愛しい。
「……分かった。大分ブラコン拗らせてるみたいでかーなーり気持ち悪いィけど」
「ブチ込むぞガキ」
千景にも自覚はあった。しかし人に指摘されると腹が立つのは仕方がない。びしっと中指を立てて虎太郎に向ける。以前は冗談に受け取られていただろうが、今となっては意味合いが異なる。
「やれるモンならやってみな。そんだけレオの事大事に思ってるちかならちゃんと考えてるって事を俺は信じとく」
「レオは大丈夫だよ。アイツは――心がまだ成長しきってないだけだから」
虎太郎の出勤時間も近付き、千景の想いには今のところ納得したという事で二人は別れた。それでも胸に燻る一抹の不安。大事な何かを見逃しているのか、虎太郎は胸騒ぎを抱えていた。
「とーら」
千景とは違う声の主に虎太郎は呼び止められた。千景もそうだったが、自分も仕事の時間が近付いているのであまり長く足を止めたくはない。胸ポケットから電子タバコを取り出しながら振り返る。
「は、誰……?」
一見して虎太郎には見覚えのない人物がそこに立っていた。いかにもチンピラという風貌で体格が良い。
「久しぶりだなァとらたろー。俺の事覚えてる?」
ニヤニヤと厭らしく歪む口元。その仕草と声に虎太郎は覚えがあった。手に取った電子タバコが鈍い音と共に地面に落ちる。
「……久、しぶり、みか兄」
「覚えててくれて嬉しいぜえ」
舐めきった顔、獲物を捉えた時の目付き、千景にトラウマを植え付けた諸悪の根源。
暑くもないのに顔中に汗が滴る感覚がした。クチャクチャと口の中で噛んでいるガムの音を響かせながら御影は虎太郎に近付く。
「んじゃ俺、仕事あっから……」
すぐにしゃがんで落ちた電子タバコを手に取る。その手の上に御影の足が重なる。ゆっくりと体重を掛けていきながら御影の影が虎太郎を覆い隠す。
「さっき一緒にいたの、千景だよなあ」
――見られていた、虎太郎の鼓動が高鳴った。これは危険を知らせる警鐘だった。
千景に御影を近付けてはいけない、詳しい理由は定かではないがそれは誰もが知っている事だった。千景がこちらに戻ってきたならば当然御影に遭遇する可能性もあったのだ。勘当された後の御影の消息は誰も知らなかった。元より千景にくっついて本家に顔を出していた御影は千景が神戸に行ってからは一度も現れなくなっていた。
「それと――名前が出てた『レオ』ってのはあのガキか」
御影は玲於に良い感情を抱いていない。それどころか排除しようと考えていたほどだった。御影の千景に対する執着心はまだ幼かった玲於にも容赦なく向けられた事があった。
今千景が玲於を引き取って暮らしている事を知れば御影はとんでもない暴挙に出そうだった。子供の頃のように千景をどこかに隠してしまうかもしれない。高い可能性で起こり得る悲劇だった。
千景と玲於が長年の時を経てお互いを想い合う関係というのならば、虎太郎はそんな二人の生活を守ろう――握る手に力が入る。
「聞いてた、の……?」
御影に踏まれている手の甲が熱い。容赦無く乗る体重は当然虎太郎の手を骨折くらいはさせるつもりだっただろう。
御影に今の千景たちの生活を壊させたりはしない、虎太郎が強引に御影の足の下から電子タバコを奪い取る。その甲にはくっきりと深い靴跡が残されていた。スパイクのようなものでなかった事は幸いだっただろうか。
「テメーが両刀だっつー話もな。なあに怖がんなよ、取って食いやしねえから」
サッと血の気が引いた。この男は一体どこから二人の話を聞いていたのか。虎太郎は今まで竜之介以外に自分の性的指向を話した事は無かった。
虎太郎の金色の髪を掴み御影は顔を寄せる。怯えながらも視線を向けると御影のその顔は――壊し甲斐のあるオモチャを見付けた捕食者のそれだった。
「――で、今千景こっちに戻って来てんだろ。住所教えろよ」
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